鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

1000回を振り返って その1

2011-07-26 05:28:14 | Weblog
 2006年8月、ブログを始めて1ヶ月間の投稿数は6回。その夏の取材旅行の行き先は伊豆半島で、ブログの題名(第1回目)は「2006・夏の伊豆半島『戸田・韮山・下田』取材旅行」となっています。

 幕末の外交交渉等が行われた舞台を歩いてみるのが目的でした。

 取材旅行の2回目が、翌9月の{「観音崎・浦賀・久里浜」。やはり幕末の外交交渉に関心がありました。

 3回目が、「お銀さまの里」。この「お銀さま」とは、渡辺崋山の主君筋の人物、三宅友信(田原藩11代藩主三宅康友の庶子)の実母のこと。崋山は天保2年(1831年)の9月、その友信の実母の行方を尋ねて、大山街道を通って相州小園村(現在の綾瀬市小園)を訪れますが、その時に著した日記が『游相日記(ゆうそうにっき)』。崋山への関心は、ブログを始めた当初から、すでにありました。

 4回目が「横浜・桜木町界隈」、5回目が「神奈川宿」で、これらもやはり幕末外交交渉の舞台への関心から。

 そしてその年(2006年)冬の取材旅行が、「三州田原」でした。これも渡辺崋山への関心から。

 この2006年の各月の取材旅行から、幕末外交交渉の舞台を結ぶ東海道を実際に歩いてみたくなり、2007年1月から2008年の8月までは東海道を中心に歩き、そこで芽生えたオールコックの富士登山の旅行への関心から、村山口登山道を利用して富士山を登ることになりました。

 一方、2007年夏の取材旅行では「越前福井」、冬は「常陸茨城」、2008年夏は「北海道西海岸」へ出かけていますが、前二者は、幕末における横井小楠の動きや水戸藩の尊王攘夷思想への関心から。後者は、中江兆民の北海道西海岸の旅を追いかけてみました。

 2008年9月からは翌2009年の3月までは、横浜から江の島までを歩いてみましたが、これは幕末に設定された外国人遊歩区域および遊歩道への関心から。ここで参考になったのはフェリーチェ・ベアトが写した幕末日本の風景写真であり、またそのベアトも関係することになった「鎌倉事件」についての興味・関心を深めました。

 2009年冬の取材旅行は、「熊本・長崎」方面。これは中江兆民の旅を追うものであるとともに、横井小楠や、フェリーチェ・ベアトの長崎写真への関心から。

 2009年の4月からは東京を歩き始めています。東海道を富士川まで歩き、横浜およびその近郊(外国人遊歩道など海岸部)を一応歩いたことで、いよいよ江戸・東京を本格的に歩いてみたくなりました。

 最初は「春日~菊坂~本郷三丁目」。江戸・東京を歩くのにまずここを選んだのは、夏目漱石・森鴎外・石川啄木・樋口一葉らと、ここは深く関係するところであったことによりますが、特に、この時強い関心を持ったのは樋口一葉でした。その一葉への関心から「下谷龍泉寺町」や「団子坂」、「谷中」「本郷」などを歩きました。

 樋口一葉の父は、もとは樋口大吉といい、甲州山梨郡中萩原村出身の農民の子でした。それが同村の娘あやめ(一葉の母となる人)と「出奔」し、江戸に出て幕府御家人となり、そして明治維新期には東京府の役人となったことを知りました。

 たまたまこの年の6月、川崎市の生田丘陵にある「日本民家園」を訪れた時、そこに移築されていた「旧広瀬家住宅」が、現在の山梨県甲州市塩山上萩原にあったものであることを知り、一葉の両親の出身地である「中萩原村」と、「旧広瀬家住宅」のかつての所在地「上萩原」が結びつき、「旧広瀬家住宅」がもともとあった「上萩原」を訪ね、それから「下萩原」の重郎原(じゅうろうばら・樋口大吉の生地)や「一葉女史碑」のある慈雲寺を訪ねました。

 ここで知ったことは、一葉の父大吉の江戸行きは、大吉の父樋口八左衛門の親友であった鶴田藤助(江戸に出て真下専之丞となり、当時蕃所調所調役勤番衆となっていた)を頼ったものであり、大吉はその蕃所調所の「小遣(こづかい)」となって、ハリスの江戸滞在(滞在先は九段下の蕃所調所)にも立ち合っているということ。

 この折りの大吉の日記は「無題日記」として残っており、その日記に基づいて、2009年の9月から、大吉とあやめが江戸へ出たルートを実際に歩いてみることにしました。それが2010年の2月まで続きました。

 一方、2009年夏の取材旅行が「西上州~東信州」、その年の冬が「阿波南部~土佐東部」というもので、これらは中江兆民の旅を追っています。

 夏・冬の泊を伴う取材旅行は中江兆民を中心に渡辺崋山や横井小楠関係、各月の取材旅行は、取材で生まれた興味・関心の赴くままに、自宅から日帰りの出来る範囲で歩くことになりました(もちろん出発点までは車や鉄道、場合によっては高速バスや飛行機を利用しています)。


 続く




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