鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-佐久島~藤川宿~吉田宿-その4

2015-06-02 05:28:18 | Weblog

 矢崎川河口部に架かる吉田大橋を渡り、矢崎川の東側堤防の上に出たのが12:50。

 そこから堤防上を上流に向かって歩いていきました。

 右手の川沿いの集落を見て気付いたことは、古い民家が佐久島の民家と同じように板壁が黒く塗られていること。屋根も黒褐色の瓦葺。

 佐久島は矢崎川の河口部から、三河湾の中央に浮かぶように見える島であり、吉良地方の幡豆海岸からは目と鼻の先。

 かつてこの川沿いの集落もほとんど黒板壁の民家であったと考えられるから、佐久島は吉良地方や幡豆海岸一帯とのつながりが深かったものと考えられます。

 名鉄蒲郡線の踏切を越えてまもなく、右手にやはり黒板壁の立派な屋敷がありましたが、その屋敷地と堤防との間に、コンクリート製の船を繋留するための柱のようなものが3本ばかり立っているのが見えました。

 現在は高いコンクリートの堤防のためにそれらの船繋柱は利用することは出来なくなっていますが、かつては矢崎川に入ってここの土場(河岸)に碇泊した船を繋留するのに使われたものであったでしょう。

 またその川沿いには黒板壁で白漆喰塗りの土蔵を持つかつては商家であったと思われる人家が並び、また堤防上には立派な石製の常夜燈も立っていました。

 まもなく現れた矢崎川に架かる橋が「吉田橋」。

 この橋を西方向へ渡っていけば吉田の市街に至り、東へ進めば「富好新田」の交差点に至ります。

 おそらくこの吉田橋の界隈が、かつての矢崎川の土場(河岸)があったところであり、川の両側には商家が軒を並び、川岸には多くの荷船が繋留されていたところであると思われました。

 『吉良町史』に記されていた、天保の頃に津出し(年貢米を港へ運び船積みすること)港として利用されていた吉田村の矢崎川の川岸とは、このあたりであったのでしょう。

 崋山たちが佐久島から乗ってきた船が停泊し、そして崋山らが上陸した場所はおそらくこのあたりであっただろうと私は推定しました。

 かつての「吉良道」であると思われる現在の県道42号は、名鉄の吉良吉田駅のやや西側から始まっています。

 吉田橋を渡れば吉良吉田駅前を通過してその始点である交差点へとぶつかります。

 崋山は吉田橋あたりで上陸して、その吉良道を岡崎・藤川宿方面へと歩いていったものと思われます。

 私はというと、吉田橋を渡ったところで右折し、そのまま矢崎川に沿ってその上流へと歩いていきました。

 左手にかつて倉庫であったらしい建物や黒板壁の古い人家が点在していました。

 「血洗橋」を過ぎて次に現れた橋が「饗庭新橋」。

 「饗庭」は、あの「饗庭塩」の「饗庭」。

 このあたりが現在は「吉良町饗庭」であり、「饗庭塩」の名前の由来となる一帯で、かつてはあたり一面に塩田が広がっていたのでしょう。

 その橋のところで左折して名鉄西尾線の踏切を渡り、県道42号に合流したのが13:46。

 そしてかつての「吉良道」である県道42号を、岡崎・西尾方面へと歩いていきました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

・『吉良町史 中世後期 近世』(吉良町)



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