鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲斐・西郡路(にしこうりじ)を歩く  その5

2018-07-03 08:06:39 | Weblog

  

 「西郡路」は現在の国道52号に重なったり、それに沿うような道筋になったりして甲州街道の韮崎宿へと向かいます。

 長沢で利根川(旧利根川)を越えて坪川にぶつかった「西郡路」は、坪川を越えて荊沢(ばらさわ)宿に入りました。

 かつての荊沢宿はこの「西郡路」に沿った「街村」であったようです。

 つまり街道の両側に商家や人家が帯のように並んでいた宿場でした。

 『甲斐国志』によれば、荊沢宿は「今ノ西郡路信駿ノ駅場ナリ」「鰍沢宿ヨリ韮崎宿ヘ伝逓ス」とあり、脇街道である「西郡路」(駿信往還)にあって、御用人馬および諸荷物の継立(つぎたて)の御用をつとめる宿場でした。

 宿場であるということは継立(荷継)問屋があるということであり、荷継をするための一定の人馬が用意されているということ。

 『甲西町誌』によると、もともとは荊沢宿の北に接してある古市場(ふるいちば)が北大師村といって六斎市が立てられていたところでしたが、その南にさらに市が発展して今市(荊沢市)となり、その荊沢市が富士川舟運が開かれて「西郡路」を利用した物資の往来が盛んになることによりさらに発展して諸物資の継立を行う荊沢宿となったらしい。

 つまり荊沢宿の成立は、富士川舟運が開かれて「西郡路」の重要性が高まった江戸時代初期であったということになります。

 そしてこの荊沢宿の家並みは北にある古市場村までずっと街道にそって延びていたようです。

 鰍沢宿も宿場でしたがこの荊沢宿も宿場でした。

 青柳も河岸(かし)や追分があって物資輸送の要衝地として賑わったところでしたが、鰍沢宿に近いこともあって宿場ではありませんでした。

 『甲西町誌』によると、宝永2年(1705年)の村明細帳によれば、130戸のうち96人が農業以外の職業に従事していたということであり、御用人馬および諸荷物の継立を行う宿場として、他の村々とは異なる村人たちの生活の営みがあったことが推測されます。

 また興味深いのは「猿引弐拾八人」(男拾四人、女拾四人)がいると村明細帳に記されていることであり、この荊沢村には「猿回し」を稼業とする人々も住んでいたことがわかります。

 年貢米は青柳河岸まで陸送され、そこから高瀬船に積載されて富士川舟運で駿河まで運ばれて行きました。

 私は坪川を甲西(こうさい)橋で渡りましたが、「西郡路」は国道52号が坪川を渡る地点(甲西橋よりもやや下流)よりさらに下流で坪川を渡ったということになります。

 国道52号は現在まっすぐに荊沢(ばらさわ)へと入っていきます。

 しかし、すでに触れたように「西郡路」は坪川を渡ってから「矩の手(かねのて)」と呼ばれるように直角に2回折れ曲がって宿場へと入っていきました。

 振り返ってみると、私が青柳追分から長沢や長沢新町を経てたどって来た道はどこかで「西郡路」からそれていたことになり、また国道52号も「西郡路」とそのまま重なっているわけではないということであり、かつての街道をそのままにたどるということはなかなか難しいことをあらためて感じました。

 かつての荊沢宿は、「西郡路」に沿う形でその道の両側に家並みが続いていく宿場であったということですが、「甲西工業団地入口」の交差点あたりから国道52号を北進していったところ、そのかつて宿場であった「街村」としての雰囲気を濃厚に感じ取ることができました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『山梨県歴史の道調査報告書 河内路・西郡路』(山梨県教育委員会)

・『甲西町誌』(甲西町)


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