鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

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甲斐・西郡路(にしこうりじ)を歩く  その6

2018-07-04 07:52:22 | Weblog

 「甲西工業団地入口」バス停あたりからの家並みがかつての「下宿」であり、瓦屋根のある白壁の長い塀のある屋敷や奥に背の高い土蔵がある屋敷があって、かつて賑わった宿場の雰囲気をとどめています。

 左手に日蓮宗法泉寺があり、その参道入口の左側に丸石道祖神がありました。

 「道祖神」と刻まれていることから文字碑型でもあるようですが、形状から言えば明らかに丸石道祖神。

 先に見た長沢の道祖神が石祠があるもののそのまわりに丸石が多数置かれていたことを考えると、このあたりにも丸石道祖神が広がっていたのではないかと思われました。

 この三段の基台をもつ丸石道祖神は、もともとこの日蓮宗法泉寺の参道入口にあったのか、それともいつの頃かここに移転させられたものであるかはわかりません。

 この法泉寺のあるあたりも「下宿」であったようです。

 しばらくして「南アルプス市 荊沢 停留所」と「バスのりば 荊沢 山梨交通」と表示されたバス停があり、このあたりが商店が最も密集していて、荊沢の中心街であると思われました。

 山梨交通の「荊沢」バス停の「荊沢通過時刻表」を見てみると、「十五所・西野経由 小笠原・甲府駅・一高前方面」へ向かうバスであり、バスは主に甲府駅とつながっています。

 以前、鰍沢から甲府駅行きのバスに乗って沿道の風景を眺めながら「西郡路」(国道52号)を進んだことがありますが、この荊沢を通過して行ったのです。

 「荊沢(ばらさわ)」という地名に関心を持ったのは「天保騒動」を調べていった時に、この荊沢という宿場が出てきて、ここで多数の一揆勢が捕えられたり打ち倒されたりしたことを知ったからでしたが、脇街道沿いに長々と延びる宿場として他村とは異なる性格をもつ集落であったことを知りました。

 『甲斐国志』によると、「高四百十九石余、戸(戸数)百十一、口(人口)六百六十九(男三百六 女三百六十三 馬六 牛二」の集落。

 馬や牛は、米などの物資を運送する荷継(宿継)のための牛馬であったでしょう。

 おそらく荷継問屋はこの「荊沢」バス停や「荊沢」交差点の付近にあったものと思われました。

 「荊沢」交差点を過ぎた右手に郵便局があり、その先に立派な土蔵のある家がありました。

 その向かいに日蓮宗鏡光山実成寺の参道があって、その参道入口左側にも道祖神がありました。

 この道祖神は「道祖神」と刻まれた楕円形の道祖神であり、一見すると丸石道祖神のようにも見えますが、「道祖神」と刻まれていることから文字碑道祖神。

 先の法泉寺の参道入口にあった道祖神と同じように、日蓮宗のお寺の参道入口に、街道に面してあるのが、この荊沢の道祖神の特徴のように思われました。

 しかし両者とも道祖神の前に線香台や賽銭箱のようなものは置かれていません。

 参道入口には「「奉安置 安産子育水子地蔵尊守護の寺」と記された看板も立てられていました。

 さらに進んだ左手にある「山梨中央銀行」の先に「松壽軒 長崎」と刻まれた看板の掛かる蔵造りの商店があり、その前で国道52号は右へと曲がり、すぐに左へと曲がって直進していきます。

 かつての「上宿(わでじゅく)」を過ぎて、「上の矩の手(かみのかねのて)」に差し掛かったことになります。

 「下の矩の手」からこの「上の矩の手」までが、かつての「荊沢宿」であったのです。

 

 続く

 

〇参考文献

・『甲西町誌』(甲西町)

・『山梨県歴史の道調査報告書 河内路・西郡路』(山梨県教育委員会)

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