鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士山宝永大爆発と、原発事故 その2

2011-06-26 05:20:25 | Weblog
 おりからの冬の偏西風によって、上空高く噴出し続けるテフラは、富士山東方一帯へと広範囲に運ばれました。しかしそれ以外の地域は、大爆発による揺れや地震による被害は受けたものの、降灰による被害を受けることはありませんでした。富士山直下の現在の御殿場市域でも、大きな降砂被害のあったのは市域の北半でした。一方、風下にあたるため富士山東方の降砂被害は、相模国の大半から武蔵地方におよび、新井白石が記すように、江戸の町においても、降砂によってのどを痛め咳に苦しむ人々が多数見られたのです。

 吉原宿の問屋年寄からの宿継ぎの注進を受けた幕府は、その報告を受けた日の翌日25日に、検分のための役人を出発させました。徒目付(かちめつけ)市野新八郎・安田藤兵衛・馬場藤左衛門の3名が、部下6名を率いて、東海道を宿継ぎの馬を飛ばしてその日は小田原宿に到着。その翌日はおそらく足柄道を通って足柄峠の上から富士山方向を遠望し、「焼けた山から四里ほどのところまで接近」したものの、それから先は降り積もったテフラのために進むことはできませんでした。降砂地帯は、降り積もった黒色のテフラにより「不断の黒一色」で覆われていました。

 大雪が降れば、山も村も田畑も平原も道も一面白くなります。たとえて見れば黒い雪によって一面が覆われている光景といっていい。すさまじい光景です。その光景が、東海道筋を馬に乗って走っている時にも、幕府役人たちの視界いっぱいに広がっていたに違いない。なぜなら藤沢でも降砂は20~30cmの深さに達していたのだから。

 灼熱のテフラは富士山東麓の村々を壊滅させ、降砂は作物を全滅させ、耕地・道路・水路・山野などいたるところを埋め尽くしました。また降砂の一部は雨が降るごとに谷や河川に流れ込み、それによって川底が上昇したことにより大洪水が引き起こされることになりました。

 「降砂→村々耕地の埋没・壊滅→飢餓・流亡、また降砂の流入による大氾濫→集落直撃→水死・飢餓・流亡という過程で死んでいった人びとの数は莫大なもの」となりました。

 永原慶二さんは、詳細な研究・検討の上に次のようにまとめられています。

 富士山の宝永大爆発は、雲仙普賢岳や三宅島の大噴火に較べると、噴火期間はわずか十六日と短く、溶岩の流出もなかったけれども、大量のテフラを東方数十キロメートルに広く堆積させ、駿河・相模・武蔵にわたる広大な宅地・耕地・山野を埋め尽くしたばかりか、酒匂川大洪水のような二次災害を反復的にもたらしたという点では、やはり空前の大被害であった、と。

 その復興には一世紀前後を必要としましたが、永原さんは、「最後に記しておきたい」としたのは、「被災地住民の執念と底力ともいうべきねばり強いパワー」でした。「それほどの被害を耐え抜いて生きてきた究極の力は、何といってもその土地に密着した住民自身の意欲と底力だといわなくてはならない」と永原さんは記しています。土木技術・計算的能力・文書作成能力・交渉能力・相互扶助機能などが、村々の指導層を中心に組織的に発揮されていったというのです。

 さて、では原発事故の場合はどうか、ということになります。

 テフラは、偏西風に乗って富士山東方の広い範囲に及んでいきましたが、色があり、その堆積はすぐに分かりました。新井白石は、まず白い砂が草木に降りかかり、それから黒い砂に変わって降り積もったと、色の変化を的確に記していました。

 しかし放射性物質は色も形も見えません。しかも放射性物質は危険物質です。堆積したテフラは確かに甚大な被害をもたらし、その被害による多数の死者を生み出しましたが、生きている人体に深刻な影響を長期的に及ぼすものではありませんでした。放射能汚染はそうではありません。

 これが原発事故の恐ろしさです。

 堆積した放射性物質は、長期にわたって人体ばかりか自然全体に深刻な影響を与えます。

 爆発によって上空に噴き出た放射性物質は、風に乗って拡散し、まとまった形で拡散したそれらは、かなり離れた地域においても「ホットスポット」を作り出しているのは、報道で報じられている通りです。

 テフラは色も形もあり、したがってその堆積もすぐにわかります。しかし放射性物質、放射能汚染はそうではなく、人体に深刻な影響を与える危険性の高いものです。

 国の原子力安全委員会が出していた原子力災害時の「防災対策指針」に、住民の避難ないし屋内退去措置範囲の目安として「8kmから10km」が設定されていて、それの大幅な見直しが始まったという報道に、私が唖然とした理由は、以上に尽きます。

 おりからの強い偏西風に乗ったテフラは、富士山の大爆発が生じたその数時間後に、「将軍のお膝元」である江戸へも到達していたのです。


 続く


○参考文献
・『富士山宝永大爆発』永原慶二(集英社新書)


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