鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その1

2011-12-11 06:34:21 | Weblog
 成田が気になっていたのは、今まで通過していたけれども、そこに成田山新勝寺があるから。

江戸市民の間には「東国三社詣(とうごくさんしゃもうで)」、すなわち香取神宮・鹿島神宮・息栖神社の三社を詣でることが流行しましたが、一方で、歌舞伎の市川團十郎人気もあって「成田詣(もうで)も流行しました。

 江戸から佐倉を結ぶ道は、「佐倉道」と呼ばれ、佐倉藩主が参勤交代で利用しましたが、その道は「成田詣」が流行するようになると、「成田道」と呼ばれるようになり、佐倉を経て成田山新勝寺に詣でる人々が利用しました。

 しかし、江戸庶民が「東国三社詣」や、銚子遊覧、また「成田詣」をするのに利用したのは、日本橋小網町から「行徳船」に乗って本行徳で下船し、それから木下(きおろし)街道を通って利根川べりの木下河岸(きおろしがし)に出て船に乗るか、本行徳から八幡宿か船橋宿に出て、それから「成田道」(佐倉道)を歩いていくか、のいずれかであったようだ。

 本行徳の河岸から徳願寺前の通りに入った時、その通りの名前が「寺町通り」であることを知りましたが、それは本行徳から成田へと向かう「成田道」でもありました。その道は船橋宿から「成田道」へと合流し、「行徳船」を利用して本行徳に上陸した人々が、成田山新勝寺へ向かうために利用した道であったのです。

 文政8年(1825年)の夏の渡辺崋山は、というと、崋山は本行徳から八幡宿(成田道沿いの宿場町)へと向かい、そこで法漸寺(葛飾八幡宮)に立ち寄った後、鬼越から木下(きおろし)街道へと入っているから、ほんの一部だけ「成田道」を利用しているものの、往路においては佐倉や成田には立ち寄っていない。

 しかし、銚子からの帰路においては、「ナリタ・テンダイ─サカ井─サクラ─ウスイ─大ワダ─舟ハシ─行徳─江戸」とあるから、成田→佐倉→船橋まで「成田道」を利用し、それから本行徳に出て、本行徳の河岸から往路と同じく「行徳船」に乗船して、江戸日本橋の小網三丁目の行徳河岸に戻っています。

 つまり、崋山は銚子からの帰路において、成田山新勝寺や佐倉城下のどこかに立ち寄っている可能性がきわめて高いのですが、それについては何も記録が残されていないのです。

 その成田には、銚子に行く電車を待つ間、駅から出て新勝寺へ向かう参道を途中まで歩いたことがありますが、新勝寺そのものを見学したことは今まで一度もなく、崋山がその帰路において立ち寄ったかも知れない新勝寺をぜひ訪ねてみたいと思っていました。

 佐倉については、今から20数年前、まだ妻と結婚する前に、妻と一緒に京成電車に乗って、まだ出来たばかりの国立歴史民俗博物館を訪れた記憶があり、おそらく当時、妻が住んでいた平塚から電車を乗り継いで行ったものと思われますが、日帰りでは、かなり遠いところであったことを覚えています。

 それ以来、佐倉を訪れたことはありません。

 佐倉城址にある国立歴史民俗博物館はさすがに展示品が多く、日帰りでは十分に見切れるものではなかったこと、そしてそれぞれの展示室においてあった案内パンフの内容が専門的過ぎて難しいものであった、という記憶が残っています。

 それから20数年後、その国立歴史民俗博物館の展示がどのようなものになっているか、そして城下町佐倉のかつての姿がどのようなものであったのかも、気になっていたことでした。

 まずJR成田駅で下車し、駅前に出たのが8:30過ぎ。12月中旬近くということで寒気の厳しい朝でしたが、見上げる空は快晴。

 駅前から新勝寺へと続く「表参道」に入って、まず目に付いたのは、表参道へ横に張り出した、えんじ色の布地に「天ぷら うなぎ 三はし」と白く染めだされた暖簾(?)でした。


 続く


○参考文献
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)


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