鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

杉浦明平さんの『わたしの崋山』について

2007-01-08 07:39:43 | Weblog
 杉浦明平さんは、愛知県渥美郡清田村(現、田原市古田町)の生まれ。作家であり、評論家。私は、杉浦さんの『維新前夜の文学』(岩波新書)と『当てはずれの面々 江戸から明治へ』(岩波書店)を読んだことがありますが、ずっと昔、中学生か高校生の時に、『朝日新聞』」(調べてみると、どうも『週刊朝日』であったかも知れません。とすると、家に『週刊朝日』が置いてあったことになりますが)で連載していた『小説渡辺崋山』を読んでいた、かすかな記憶があります。 この作品は、ネット辞典の「Wikipedia」によると、1971年に「毎日出版文化賞」になった作品のようです。

 田原市中央図書館のコーナーには、渡辺崋山関係の書籍とともに、それと並んで杉浦明平さんの本が置いてありましたが、その中にも、当然のことながら、『小説渡辺崋山』が入っていました。上・下に分かれており、上下二段組の分厚い本でした(朝日新聞社)。

 私も渡辺崋山を主人公にした小説を、いつか書いてみたいと思っているのですが、この杉浦明平さんの『小説渡辺崋山』が、その「先達(せんだつ)」となる小説と思っており、いつかしっかりと読んでみたいと思っています。

 その杉浦さんの本の中に、『わたしの崋山』(未来社。「ファラオ企画」のがありましたが、これは未来社から出されたものと同じ内容です)と、『崋山探索』(河出書房新社)があり、そのうち『わたしの崋山』を手にとって、読んでみました。

 『わたしの崋山』は、1967刊とありますから、『小説渡辺崋山』に先行する作品だということになります。
 しかし、全部の内容が崋山関係のものではなく、P159からが「わたしの崋山」という章で、崋山のことに触れられているところです。

 杉浦さんが、故郷の先人である渡辺崋山のことを知るのは、子ども時代に遡(さかのぼ)るようですが、冒頭、1940年の秋に行われた展覧会で見た崋山の2枚の絵のことが出てきます。

 その展覧会は、崋山没後百年を記念したもので、会場にずらりと並べられていた四百近い作品の中で、杉浦さんの印象に深く残ることになった2枚の絵がありました。
 
 一枚は「孤鹿」というもので、その鹿の眼が、「かぎりない孤愁とでもいうべき感情に満ちてい」ることに、杉浦さんは目を留めます。
 
 もう一枚は、「手紙に描き添えられたもの」で、「垣根があり、椿の木かムクの枯木をまじえた木立の下に藁(わら)ふきの小家」があり、その家の「垣根のほとりに一人の男が立ってこちらを見ている」「俳画風」の絵でした。
 
 その2枚の絵の、鹿の眼と男の眼は、「崋山の悄然(しょうぜん)たる悲愁をもったまなざし」を持ち、それが当時の杉浦さんの心を深くとらえたのです。

 杉浦さんの『小説渡辺崋山』は、その「崋山の悄然たる悲愁をもったまなざし」の、よって来(きた)るところを、追うものであったと言えるのかも知れません。

 この「わたしの崋山」の中で、杉浦さんは、祖母と墓参りに行った時の思い出に触れており、その内容がとても私の心に残りました。

 杉浦さんの祖母の家の墓は、田原の城宝寺にありました。その寺は、渡辺崋山の墓所があるところでもありました。

 祖母は、墓参りに行くと、必ず一束の花木と一酌の水を残して、最後に崋山の墓にささげ、まだ幼い杉浦さんに、次のように話したというのです。


 崋山先生がなくなられたときは、わしは子供だったが、「崋山先生が切腹されたげな」と町方の衆が泣きながら池ノ原(崋山の幽居で、自刃したところ)の方へ走っていったのを思い出すぞえ。ご維新までは、このお墓に鎖がまきつけてあってのう」


 「このお墓」というのは、現在、城宝寺の墓地にある立派なものではなくて、それ以前の、「無銘の石」であった墓のことをさすのでしょう。

 崋山の墓の建立(こんりゅう)が、幕府から許されたのは、慶応4年(1868年)の3月15日のこと。それをうけて、崋山の次男である小華(舜治・諧〔かなう〕・渡辺家の家督を相続し、幕末には、父崋山と同じく田原藩の家老となり、廃藩置県後は参事という要職を勤めました)により、明治元年(1868年)に墓が建てられました。

 池ノ原の幽居には、崋山は、天保11年(1840年)の2月16日から翌天保12年(1841年)の10月11日まで、一年八ヶ月ばかりを過ごしましたが、その10月11日に、崋山は自刃しました。

 同年11月5日に、江戸から田原にやって来た、北町奉行所与力中島嘉右衛門ら5名により、崋山の検死が行われます。それまで、崋山の遺骸は、大きな甕(かめ)に石灰詰め(腐らないように)にされていました。

 その幕吏による検死が終わった後に、城宝寺の墓地に、崋山の遺骸の入った大甕が埋められ、その上に「無銘の石」の墓が建てられたわけですから、それから27年間もの間、その「無銘の石」には、罪人であることを示すために鎖が巻かれていたということになります。

 「町方の衆が泣きながら池ノ原の方へ走っていった」という光景は、杉浦さんの祖母の脳裡に刻まれたものであり、同時に、杉浦さんの心に刻まれたもの(杉浦さんは、それを実際に見たわけではありませんが)でもあったでしょう。

 この「わたしの崋山」の中で、杉浦さんは、崋山が逮捕された時の、彼の知己(ちき)である人々の反応を記しています。

 崋山と同じ田原藩の、蘭医であった鈴木春山は、池ノ原にいる崋山を一日二回ずつ往診して、崋山の無聊(ぶりょう)を慰めました。
 
 安積艮斎(あさかごんさい)は、「細心な学者」で、罪人となった崋山との関わりを持とうとはしませんでした。

 佐藤一斎は、「わしが(崋山の救済運動を)やっても何にもならんよ」と言い、崋山の弟子の松岡次郎は、「あん畜生。何のために儒学の勉強をしたんだ。俗物め」と言ったといいます。

 松崎慊堂(こうどう)は、老齢にも関わらず、崋山の赦免を要求する長文の嘆願書を著(あらわ)しました。


 杉浦さんは、崋山のことを、「およそ政治的資質を欠いている男」と言い、また「情にもろい」男だと言っています。崋山が「政治的資質」を欠いていたかどうかは、私には異論がありますが、「情にもろい」人であったことは、あの「游相(ゆうそう)日記」(小園村の「お銀さま」との再会)からも伺えるところです。

 私は、渡辺崋山ほど、あの当時の日本において、西洋世界(世界情勢)についての認識を深めていた人はいなかった(長崎の通詞たちの中には、もしかしたらいたかも知れませんから、少なくとも江戸において)のではないか、と思っています。それが、彼の悲劇をもたらすことになったのですが……。

 田原市中央図書館の杉浦さんのコーナーには、『立原道造と杉浦明平─往復書簡を中心として』というカタログ(立原道造記念館)が置いてありました。

 やはりネット辞典の「Wikipedia」によると、杉浦さんは、東大在学中に、神田の古書店街巡りをしている時に立原道造と知り合い、ともに同人誌をやったりして、盛んに交流をもったということです。1939年に若くして死んだ立原道造の詩を編纂して、『立原道造詩集』として世に出したのは、杉浦さんだったということです。

 もう一冊の『崋山探索』は、『わたしの崋山』と違って、全部、崋山について書かれているようで、近いうちにぜひ読んでみようと思っています。


追伸

 【今年の主な目標・願い】

①健康第一(家族の無事・安全)
②早朝ウォーキングの継続
③ブログとメモの継続
④富士登山(ご来光)
⑤『波濤の果て 中江兆民のフランス』の脱稿

 やっぱり、健康こそ、基本ですね。


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