鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.7月取材旅行「三ヶ尻 Ⅰ」 その3

2013-07-28 06:29:26 | Weblog
しばらく進むと信号のある交差点にぶつかり、そこで右折。

 右折してまもなく右手に三尻郵便局があり、熊谷市内循環バスの「三尻郵便局」バス停がありました。

 次の交差点前の道路標識には、「↑東松山 ←熊谷市街」とあり、この県道47号線を直進すれば東松山に至り、交差点で左折すれば熊谷市街に至ることがわかります。

 その交差点は「三ヶ尻」交差点であり、左角には大きな松樹が一本、ランドマークのように立っていて、かつての旧街道の面影を残しています。

 その交差点で左折し、熊谷方面へと歩いてみることにしました。

 その通りはそこはかとなく、旧街道の雰囲気を漂わせていました。左手に「竹本屋」という文字が目立つお店や、その先でゆるやかに左へとカーブしている、道幅がそれほど広くない通りの様子が、そのような雰囲気を醸し出しているようです。

 そこから2分ばかり歩くと用水路があり、赤茶色の水量調節のための鉄骨装置のようなものが設(しつら)えられていました。

 その用水路の白いフェンスには「奈良堰幹線用水路」と記された表示版が貼られていました。

 崋山の「瓺尻全図」(みかじりぜんず)に「奈良堰」と記されている用水で、荒川から引かれているもの。

 崋山のその地図では、このあたりは「新町」と記され、そこからしばらく行けば、「上宿」(実際は「下宿」)や「横町」があることになっており、その道は「熊谷道」と記載されています。

 つまりこの道は中山道熊谷宿に至る道であり、熊谷宿から見れば秩父地方へと至る「秩父道」ということになります。

 崋山が三ヶ尻にやってきたルートは、まず中山道深谷宿から熊谷宿方面へと歩き、熊谷宿手前で右折して別の秩父街道を進んで大麻生村へと至り、その大麻生村の古沢喜兵衛(槐市)の案内で三ヶ尻へと向かったものと思われます。

 大麻生村から三ヶ尻村へのルートは、武体(ぶたい)村や三ヶ尻村の宮島を経由して、奈良堰に架かる小橋を渡って、三ヶ尻村中宿へと至るものであったと思われる。

 宮島を過ぎて崋山たちが渡った奈良堰は、「中宿」の東側を流れて、「中宿」と「新町」の間で旧街道(熊谷道・秩父道)を横切ったのです。

 その「奈良堰幹線用水路」の上流を見てみると、少し先で右へとカーブしており、下流を鉄骨の水量調節用らしき装置越しに見てみると、いくつかの人家の鬱蒼とした庭木の繁りの向こうに消えています。

 用水の両岸はコンクリート壁になっており、そしてまた事故防止のための柵が設けられていて、かつての用水の面影はほとんど残していませんが、その用水の幅や微妙な流路のカーブが、わずかながらかつての雰囲気をしのばせます。

 崋山は『訪瓺録』の「形勢」の中で、「凡此辺三水柵ト称スルモノ、奈良、玉ノ井、大麻生ナリ」と記し、「奈良、玉ノ井ハ本郡二属シ、大麻生ハ大里郡二属ス。皆荒川ノ引水也」と正確に記しています。

 「本郡」とは「幡羅郡」のこと。

 そして三ヶ尻村の場合は、「用水ハ奈良堰二拠ル」としています。

 三ヶ尻村の田畑用の用水は、「奈良堰」に拠っているということ、すなわち三ヶ尻村の農業にとって「奈良堰」は必要欠くべからざるものであるということを、しっかりと記載しているのです。

 その「奈良堰幹線用水路」の流れを見た後、さらに道を2分ほど熊谷方面へと進んで行くと、道は大きく右へとカーブし、そしてすぐに今度は左へとカーブしてさらにまっすぐ東方向へと延びていました。

 そのカーブのところには、石地蔵などの石造物が集められて立っているトタン屋根付きの小さな祠がありました。そしてその前には大きなコーヒー缶や花柄の水差しのようなものに入れられた色とりどりの花が供えられていました。

 このカーブや石地蔵のある祠なども、旧街道の雰囲気を濃厚に漂わせていました。



 続く



○参考文献
・『平成14年度熊谷市埋蔵文化財調査報告書 三ヶ尻遺跡Ⅲ』(埼玉県熊谷市教育委員会)
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)


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