「響きます人・海・森のハーモニー」と壁文字のある「道の駅 やまだ」は、「道の駅 高田松原」とは異なって津波の被害を受けた様子はなく、観光客等で賑わっていました。
店内の掲示で目に留まったのは、「Route Press ルートブレス 21st.」(道21世紀新聞)が掲示してあって、それに大きく「道の駅1005駅に」という見出しが躍っていたこと。
道の駅制度が4月で20周年(制度発足は平成5年4月)。3月に9駅が新規登録されて、全国で1005駅になったという。
それに伴い、「道の駅新時代」を話し合うために、岩手県の遠野市で「連絡会」の設立総会とシンポジウムが開催されたというもの。
「道の駅」は、私も関心を持っている施設であり、それが道中にあればなるべく立ち寄るようにしている施設ですが、1000駅以上になっているとは知りませんでした。
「道の駅」は、地域の諸産業や生活・観光ともっと緊密に結びつくべきであり、そのためにももっもっと創意工夫をこらすべきだと私は考えています。
車でやってきた人々が、そこを拠点に周辺の遊歩道・散策道路を歩いたり、あるいは自転車やレンタサイクルでゆったりと見学して回ったりすることができる場所であってほしい。
ウォーキングやサイクリングと絡めた施設。
場合によっては地方ローカル線の駅に併設された「道の駅」があって、車を停めたそこからローカル線に乗って観光をしたり、ポタリング(輪行)ができるといったこともあっていい。
地域ともっともっと密着した「地域おこし」のための拠点の一つになるべきです。
といったことを、その掲示物を読みながら考えてから、「道の駅 やまだ」を出発し、カーナビで「陸中山田駅」を検索して、それに従って「陸中山田駅」(JR山田線)に向かいました。
その「陸中山田駅」前のロータリー広場に到着したのが15:01。
駅周辺は更地となっており、海(山田湾)へと続くメインストリートの両側には、鉄筋コンクリートの建物はいくつか残るものの、木造の商店や人家があったところは更地になっており、その更地が目立ちました。
そのメインストリートの先には海面とその先の陸地の山稜が見えました。
駅舎はなく、駅のホームに立ってみると、線路上には夏草が茂っており、右方向を見ても左方向を見ても、その夏草の茂りは続き、背後の山側のやや高所に、津波の被害を免れた人家の姿が見えるものの、あとはほとんどが更地になっていました。
陸前高田駅と同様に、津波の被害を受けた駅舎も線路も撤去され、賑やかな商店街があったであろう駅前周辺はほとんど人影も車の姿も見受けられず、夏の強い日差しの下、閑散としていました。
「陸中山田駅」前を出発して、山間部を経て、ようやくこの日の宿泊先である宮古市街に入って、海岸べりにある「道の駅・みなとオアシス みやこ」に立ち寄ってから、宿泊先のビジネスホテルに入ったのが17:00頃でした。
終わり
〇参考文献
・『三陸海岸大津波』吉村昭(文春文庫/文藝春秋)
私は宮古(鍬ヶ崎)出身北海道在住津波ブロガー。ふるさとでもあり被災地でもある鍬ヶ崎中心のブログを書いてます。貴方の夏の取材旅行は力作だと思います。時間を見てじっくり読み返そうと思っております。
宮古市の海岸べりにある道の駅の向こうにある海岸一帯が鍬ヶ崎です。道の駅から浄土ヶ浜へ行く途中と行った方が分かりやすいか…
宮古沖海戦の地、啄木寄港地でもあります。またの機会にコメントをお願いします。
私のブログに目を通して頂き、たいへん嬉しく思います。
今夏の取材旅行は、三陸海岸については気仙沼から北上して種差海岸まで北上したので、もちろん「最終回」とありますが、宮古に到着したところまでが前半で、これから宮古から久慈を経て種差海岸を通り、八戸、そして盛岡までが後半として続きます。
宮古は学生時代にほんのわずかばかりですが立ち寄ったところでもあり、その時に三陸大津波についての知識や関心が私にはありました。
海が見えないほどの高い防潮堤を見た記憶が残っているのですが、それが宮古のどこであったのか、いや宮古ではなくほかの町だったのか、今回、宮古市街を車で走ってみて、過去の記憶があいまいであることに気付かされたというのが正直なところでした。
浄土ヶ浜には早朝に車で出かけ、日の出の光景を眺めました。
吉村昭さんゆかりの田野畑村の島越(しまのこし)も歩いてみました。
田老の防潮堤の上も歩いてみました。
それらのことについては、明日からまた報告していく予定です。
また、今後とも、よろしくおつきあい下さい。
鮎川 俊介