鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その9

2010-12-14 07:40:06 | Weblog
 家の前に立っている案内板によれば、この旧宇田川家住宅は明治2年(1869年)に建てられたもの。江戸時代に名主である家から分家して、屋号を「藤村屋」と称し、米屋、油屋、雑貨屋、呉服屋と、商家として使われてきました。大正3年(1914年)には店の一部を改造して、浦安郵便局が開局され、郵便局として使われてきましたが、昭和21年(1946年)から昭和48年(1973年)までは診療所として使われ、その後は昭和57年(1982年)まで住居として使われていたという。

 「一階正面の揚戸、かぎの手の土間、二階軒の桁など幕末から明治に至る江戸付近の町屋の形をよく伝えており商家遺構の少ない関東では非常に貴重な建物」でもあるという。

 「関東」では「商家遺構」が「少ない」、ということはこの案内板で知りました。

 開館案内によると「無料」ということで、さっそく中へ入ってみることに。店土間から見ると、通りに面した格子戸から外の光が射しこんで、その格子の影が壁や店の間の揚戸に映っているのが美しい。店の間には反物の柄を見ている着物姿の女性と、それに応対している店の主人の人形が置いてあります。店の間の揚戸は、両側に溝があって、上に戸を引き揚げて金具で止める仕組みになっています。土間から上に上がると、中の間、そして奥の間と続き、中の間・奥の間の縁側からは中庭が望めました。

 二階には上がりませんでしたが、屋根裏部屋は使用人部屋になっており、板床。二階座敷の窓は通りに面しており、出格子窓になっています。

 二階の軒の桁などを見ても、かなりしっかりとした造りの商家であることがわかります。

 受付の女性の話では、かつてはこの家の前の通り周辺が、浦安の中心街で、店がずらりと並んで人通りも多かったとのこと。映画館もこの通りにあったらしい。地下鉄東西線が出来たことにより、その周辺や葛西橋通り界隈が賑やかになり、このかつての中心街はひっそりとしたものになってしまったという。

 「この通りはどこまで続くんですか」とお聞きしたところ、途中で左折して境川を渡るのだという。

 内部の見学を終えて、その通りへ出たのが11:08。確かに人通りも車通りも少なく、ひっそりとしていますが、それがかえって映画館もあったというこの通りのかつての賑わいをしのばせます。

 歩いてみると、さまざまな商店がちらほらと通り沿いに散らばっています。

 左手に「千葉県指定有形文化財 旧大塚家住宅←」という看板があったので、左折して細い路地を入ってみると、垣根越しになんと茅葺きの家が現れました。茅葺き屋根はすっきりとしており、それほど古いものとは思われない。路地を突き当たると、工事用の柵が続く川縁の遊歩道に出ましたが、この川が境川。この旧大塚家住宅は境川べりに建っています。

 そこで思い出したのが、「新川橋」の案内板の古写真(大正期)に写っていた川縁の茅葺き屋根の人家。左端に1軒、境川の上流左岸に3軒ばかりの茅葺き屋根の民家が写っています。家の向きも屋根の形も、ほとんどこの旧大塚家住宅と同じ。新しい造りの家も見えますが、かつてはこの境川の川沿いに、このような茅葺き屋根の人家がずらりと並んでいたらしいことがわかります。

 旧宇田川家住宅などの商家建築が並ぶ表通りとは対照的な世界が、境川沿いにはあったことがわかります。旧宇田川家住宅は瓦葺き屋根であったのに対し、こちらは純然たる茅葺き屋根。

 ここにも「千葉県指定有形文化財」の案内板が立っています。

 それによるとこの旧大塚家住宅は、江戸時代末期に建てられたものであるという。屋号は「兵左衛門(ひょうざえもん・周囲の人は「ショウゼムドン」と呼んだ)。埋め立て以前は、冬季に海苔を生産し、農業も営む半農半漁の家。

 境川から上がると、正面は板壁で、左手に回ると手前に土間の入口があり、その奥に玄関がある。その土間の入口から中に入ると、板の間で網を繕っている鉢巻をした主人と女の子の人形がありました。この人形が、なかなか本物っぽく、声を掛けたくなるほど。土間の天井を見ると、露出した柱組みのところに棹や櫓などが置かれています。木組みはかなりしっかりしている。そして土間の壁際には網が広げて吊り下げられています。

 また小屋裏2階があって、そこは水害の時の避難場所や大事な家財道具の仕舞い場所になっていたという。

 パンフレットによると、浦安の民家は、境川に近い方に土間があって、遠い方に客座敷が造られていることが大きな特色となっており、境川を挟んで堀江側、猫実側では間取りが対称的な形になっているとあり、舟にすぐに乗り下りできる境川べりに家が建てられていることや、土間がその川に近いところに設けられていることから、境川を利用した東京(江戸)湾岸の漁業が生業(なりわい)の中心であったことがよくわかります。また小屋裏2階の存在により、洪水の際の対策もちゃんと考えられていたことがわかります。

 受付の方に、「屋敷地への出入り口は、やはりこの境川側だったんですか」と確かめてみると、やはりかつても案内板の立っているあたりが屋敷地への出入り口であったとのこと。石段を上がって左手に回ったところに、南に向いて土間の入口と玄関があったわけです。

 となると、表通りへは垣根の南側の路地を通って出たことになります。人家は境川沿いに密集していたから、田んぼはその集落の外側にあったでしょう。

 建物内に上がって見ると、畳の敷かれた四畳半や座敷もあり、また床の間や縁側もあって、かなりしっかりしたものであり、貧しい漁師の貧しい家といったものではない。同じ造りのように見受けられる「新川橋」の案内板の古写真に写っている茅葺き屋根民家も、おそらく同じようなものであり、境川に沿った漁師の家は比較的裕福であったのではないかと思われました。


 続く


○参考文献
・「災害と闘ってきたまち─キティ台風の襲来─」(浦安市教育委員会)
・「浦安市内に今でも残る文化財住宅」(浦安市教育委員会)


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