鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-佐久島~藤川宿~吉田宿-その9

2015-06-15 05:07:10 | Weblog

 本堂内や庭園を観終わった後、本堂を出て、本堂の左側にある墓地へと足を踏み入れました。

 「高家 吉良家墓所」と刻まれた標柱があり、石段を上がった右手一帯が吉良家の墓地でした。

 「吉良家墓所の墓石案内図」があり、それぞれの墓石が誰のものか知ることができました。

 案内図には、一から十二まで番号が振ってあります。

 そのうち左奥にある一が「義安」のもので戒名は「華蔵寺殿円山常光大居士」。

 三が「義定」。

 六が「義央」で、戒名は「霊性寺殿実山相公大居士」。没年は「元禄一五年一二月一五日」となっています。墓の場所は手前の右から二番目。

 注目されたのは十一として、「キリシタン燈篭」があること。

 また九の墓は「アグリ子」の墓であり、この「アグリ子」は義央の次女であるとのこと。「アグリ子」とは変わった名前です。義央よりも14年前に亡くなっており、若くして亡くなったのでしょうか。

 この墓石群のうち、崋山がスケッチしたのは、左奥にある「義安」の墓石であり、お花が供えてある義央のお墓を一見した後、「義安」の墓前へ行きました。

 素朴な五輪塔で、やはり仏花が供えられていました。

 左横には、「義安公墓 西条 東条城主 織田 今川 松平の勢力に翻弄(ほんろう)される。 藪田(藤枝市)で不遇な最期 右隣りは夫人の墓」と記された案内板がありました。

 墓石のまわりの四角い石組みも含めて、実物と崋山のスケッチのそれとは大きく異なるところはありません。

 他の墓石も、そしてそれらの位置も、崋山の時とほとんど変わっていないと思われました。

 崋山は石段を上がって、右横の吉良家墓所へと入り、義央や義安などの墓石を見てまわり、そしてその中の一つ、義安の五輪塔の前に立って、それをスケッチしたのです。

 義定は、父義安の菩提を弔うためにこの華蔵寺を創建し、京都妙心寺から月船和尚という高僧を招いて開山としたわけであるから、この墓地に最初に建てられたお墓はこの義安の五輪塔であったということになります。

 華蔵寺の吉良家の墓石群のうち、もっとも古いものがこの義安の五輪塔で、造られたのは永禄12年(1569年)以後のこと。

 崋山の脳裡には、江戸時代以前の三河地方、織田・今川・松平などが抗争を繰り広げる戦国時代のことが浮かんできたのかも知れません。

 三河田原藩の祖(藩祖)である三宅康貞公のことを、崋山はここで想起したのではないか、と思われました。

 吉良公家臣供養塔や、「桐の花影 元禄事件吉良家家臣忠死者」の姓名等を刻んだ石碑も、墓地内にはありました。

 「キリシタン石燈篭」は、義定のお墓の前にありました。

 石燈篭の下の部分には、マリア様のような像が刻まれていました。

 吉良家の有力者の中に、「キリシタン」(=クリスチャン)がいたということでしょうか。

 それについての案内文は何もありませんでした。

 吉良家の墓所を一巡した後、「華蔵世界」の扁額が架かる中門を潜り、石段を下って山門前の通りに出たのが15:53でした。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

・「近代デジタルライブラリー 参海雑志」

・『三河の街道と宿場』大林淳男・日下英之監修(郷土出版社)

・『江戸時代 人づくり風土記23 愛知』(農山漁村文化協会)


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