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右手に茶臼山、前方に岡山を見ながら、整備された横須賀畷(なわて)の歩道を進み、突き当たったところで右へ折れて行くと、右手に華蔵寺の駐車場が現れ、案内板がありました。
その案内板には「片岡山 華蔵寺」と記されています。
それには次のようなことが記されていました。
華蔵寺は、慶長5年(1600年)に吉良義定が妙心寺の高僧月船禅師を請じて、吉良家菩提寺として開基されたもの。
当寺は、吉良家13代から16代までの墓を護(まも)っているとのこと。
吉良氏は、源家嫡流足利氏の名門で、鎌倉初期に足利義氏が三河守護になり、吉良荘(現在の西尾市一帯)に住み、吉良を称した。
室町時代には有力大名の一つとして、常に室町幕府を支え、江戸時代には旗本高家に列し、その筆頭として栄えたが、不幸な元禄事件により断絶。
当寺には県指定の文化財が多数あり、吉良上野介義央(よしひさ)自らの彩色といわれる木造をはじめ、江戸期南画の第一人者とされる池大雅の作品群、吉良家寄進の品等がその代表的なもの。
また本堂裏の枯山水は、小堀遠州流といわれ、古来から有名である。
吉良家は、鎌倉時代に三河国守護になって吉良荘に住んだ足利義氏の流れを汲む、吉良足利家であったことになります。
その駐車場の前あたりから参道が山門に向かってまっすぐに延び、山門の向こう側には岡山の麓にあたる森の繁りが見えます。
その山門の近くにも「片岡山 華蔵寺(けぞうじ)」と記された案内板がありました。
「吉良家墓所」とあり、「吉良義安(よしやす)から義央(よしひさ)の継嗣義周(よしちか)まで吉良家六代の墓が残る」と記されています。
「その他の文化財」として、伝池大雅作品群(本堂襖絵四〇面) 池大雅の木額なども記されています。
山門を潜ると石段があり、その石段の上に小さな門(中門)が見えました。
その中門に扁額があり、そこに「華蔵世界」との文字があり、それはまさに崋山が模写した「三岳」すなわち池大雅の文字でした。「その他の文化財」として挙げられている「池大雅の木額」というのは、これにあたるでしょう。
石段を上った際の中門に掛かっており、崋山は石段の上から仰ぐようにしてこの扁額の文字を見て写したことになります。
文字の太さの違いはありますが、ほぼ正確にその独特な文字の形を写し取っています。
その扁額が掛かる中門を潜ると、正面に本堂があり、右手の建物に受付があったので、拝観料を払って本堂の中へ入りました。
本堂の廊下の真ん中に、「帝網窟」と記された木額が掛けられていました。
崋山は、この木額にも着目し、それに記された文字を模写しています。
この木額の文字は、臨済宗中興の祖である白隠慧鶴(はくいんえかく)が記したもの。
崋山が華蔵寺の石段の上の中門を潜り、そして本堂に入ったことは、これで確実になります。
本堂の裏手には岡山の斜面を利用した見事な枯山水庭園があり、崋山も縁側に座ってこの庭園を眺めながら休息を摂ったものと思われました。
展示してあった案内パネルのうち、「吉良家由来」によると、吉良氏は、清和天皇の後裔で足利左馬頭義氏が承久年中(1218~31)に、西尾城を築いたのが起源であるとのこと。
元来、足利義氏は源家の嫡流であり、そして二位禅尼政子の妹婿である足利治郎太輔義兼の三男だったので、政子は特にこの義氏を愛し、源家の重宝である短刀と白旗を与えて三河の守護にした、とのこと。
その子である左兵衛長氏の時に初めて西尾城に居城して以来、この地を雲母の荘(きららのしょう)と称えることによって、足利を改め吉良としたのだという。
「雲母の荘」から、足利を改め「吉良」としたということは、この説明で初めて知りました。
「雲母」というのは、後に近くの「八面山」(やつおもてやま)という山と関わってくるものであり、崋山はこの「八面山」もわざわざスケッチしています。
そのパネルに記されている系図を見ると、13代が義安、14代が義定(この華蔵寺を創建した人物)、15代が義彌、16代が義冬、そして17代が義央(よしひさ)であることが記されていました。
本堂の襖絵(40面)は、池大雅が描いたものであるようですが、その襖絵は別のところに保管されているのか、本堂にはありませんでした。
崋山はその伝池大雅の襖絵を見ているはず。
しかし、それについても日記には何も触れられていません。
〇参考文献
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)
・「近代デジタルライブラリー 参海雑志」
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