鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.5月「登戸そして二子・溝口」取材旅行 その1

2009-05-20 06:10:02 | Weblog
 小田急線の登戸(のぼりと)駅と向ヶ丘(むこうがおか)遊園駅の間は大変短く、歩いてもそんなにかからないような距離。この間の日本民家園のある丘陵側の平地は、「登戸」や「「宿河原(しゅくがわら)二丁目」という町名になっていて、目指す旧清宮家があったところは、武田病院と向ヶ丘遊園駅前にあるダイエーとを結ぶ通り沿いにあって、その通りのダイエー寄りには「浅間(せんげん)神社」というものもあります。

 ということで小田急線登戸駅から、JR南武線(武蔵溝ノ口駅方面)に平行する通りを、左手に鈴木産婦人科を見て進み、途中で右折。そこからやや道に迷いながら、目指す住所が記してある電柱のところに、ついと出て来ました。

 見ると、材木がおいてある物置小屋があり屋敷地も広いお宅がありました。たしかにかつては、広い田畑を持った農家があったであろうと思われるところ。

 長いガレージの門があって、車庫には車が2台停まっています。まわりにはマンションや住宅が建て込んでいますが、この辺りの通り沿いの風景は、屋敷地の豊かな緑もあって、かつての農村風景をしのばせるものがあります。

 清宮家は、現在も大工業を営まれているようで、宅地内の大きな作業小屋には、真新しい木材が積み重ねてありました。

 この敷地内のどこかに旧清宮家があったことになります。

 右横の路地を入っていくと、清宮家の背後(かつては田んぼや畑が広がっていたと思われるところ)に、「第○きよみやハイツ」と表示されたアパートが並んでいました。

 日本民家園で購入した『日本民家園収蔵品目録5 旧清宮家住宅』によれば、この清宮家は、「近世期には上層農家として暮らしを営み、明治に入って大工を生業とした家」。旧清宮家は、「移築時の調査から17世紀の中期から後期の建築と考えられ」るもの。300年以上の歴史を持つ古民家ということになります。

 移築前の清宮家住宅の写真(昭和41年〔1966年〕)を見ると(同書P18に掲載)、棟の部分は板囲いされており、「芝棟」ではなかったことがわかります。民家園に移築し、復元した時に、かつてこのあたりでごくごく一般的であった「芝棟」にしたものと思われます。その棟には、やはりこの地域でかつてはごく一般的であった「いちはつ」を植えたのです。

 移築時の当主は、清宮一男氏(1902~1969)。聞き取り調査(平成17年)の際の話者は、一男さんの息子さんである昭二氏やその家族や親類の方たちなど。

 その聞き取りによると、旧清宮家の屋根は、「クサブキで、ヒサシの部分はスギッカワ(杉の皮)」でした。「しかし、スギッカワが傷んで仕方ないため、フキオロシにした」のだという。

 「クサブキ」というのは、もちろん茅葺きのこと。

 「葺き替えは一度にやることもあったが、一度にすべては大変なので、上の棟だけとか表側だけをやることもあった。葺き替えるときは、屋根屋のほか、近所の人が縄を持って手伝いに来た。お互い手伝い合うのが慣わしだったが、ご飯を出したりするので大変だった」とのこと。

 茅の採取場所、すなわち「茅場」は、向ヶ丘遊園のあたりにあったという。「しかし、茅だけでは葺けないため、小麦のわらや篠竹も混ぜて使」、「麦わらは乾かして、天井裏に貯めておいた」そうです。

 聞き取り調査の内容を見ていくと、かつてのこのあたりの生活の様子がよくわかり面白いのですが、茅葺き屋根の棟の「いちはつ」や「いちはつの花」のことは出ていません。おそらく、移築前の旧清宮家の写真からもわかる通り、棟の部分はいつの頃からか長らく板で覆われていて、棟の上に咲く「いちはつの花」を見上げた思い出は遠い過去のものになっていたのかも知れません。

 そう言えば、古江亮仁さんの『日本民家園物語』にも、「いちはつの花」のことは出てきませんでした。

 誰かが、復元する際に、「芝棟」のところを板囲いにはせず、「いちはつ」を植えることを提案したのだと思われますが、それによって現在のような清宮家を私たちは見ることが出来るようになったというわけです。

 この旧清宮家に、「多いときで13人が住んでいた」という。30坪ほどの建坪であることを考えると、これは驚きです。

 移築前の間取りと、移築後復元された時の間取りとは、かなり異なっています。移築前の間取りを見ると囲炉裏があった部分は「ダイドコロ」になっています。「ヘヤ」と「オクノヘヤ」の間取りも違います。

 旧清宮家を再度訪れた時、1回目の時は出来なかった「床上見学」をすることが出来ましたが、その時、その「ヘヤ」に足を踏み入れましたが、そこの床には竹が敷いてありました。「竹床」であったのです。ボランティアガイドの方にお聞きすると、そこはプライベートの部屋で、おそらく若夫婦などの寝室として使われていたのだろう、というお話でした。

 囲炉裏のある板の間と、その奥の板の間を隔てている壁の下には狭い棚のようなものがありましたが、それは「床の間」の前身である、とのことでした。

 この建物がかなり古い形式を持つものであることがよくわかる一例です。

 かつてこの敷地内に、民家園のあの旧清宮家が建っていたようすを思い浮かべながら、通りを隔てた斜め向かい側にある屋敷地(ここには樹木や竹林がこんもりと繁っていて、かつてこのあたりにあった農家の雰囲気を濃厚にとどめています)のまわりをぐるっと歩いてみました。


 続く


○参考文献
・『日本民家園収蔵品目録5 旧清宮家住宅』(川崎市立日本民家園)
・『日本民家園物語』古江亮仁(多摩川新聞社)


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