鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

広重の甲府滞在 その9

2017-11-20 06:33:09 | Weblog

 

 「武田通り」に出て北進した突き当りが、堀に囲まれた「躑躅ヶ崎館跡」で現在は武田神社となっているところ。

 「由緒」が記された案内板によると、ここに武田神社が造営され鎮座祭が挙行されたのは大正8年(1919年)4月12日のことで、この日が「御祭神命日」として例祭日になっています。

 堀に掛かる橋を渡ると「現代の図」と「古府の図」が並置されていました。

 「古府の図」の解説によると、「古府の図」は大正7年に発刊された「甲府略志」に描かれた地図であり、現在の甲府駅北口の地域における戦国時代から江戸時代にかけての土地利用を一つの絵として表したもの。

 「現代の図」は、最近の地形図に「古府の図」で描かれた町割りを重ねあわせたもの。

 この両地図を見ると、現在の「武田通り」はかつても「躑躅ヶ崎」の館から南に直線的に延びており、その両側に武田家重臣たちの屋敷地があり、その通りの南には「元柳町」と「大工町」というえ町名が付されています。

 「古府の図」には「新府中」からの通りに「愛宕」と記され、その北には「元紺屋町」と記されています。

 また「古府中」も「新府中」と同じく碁盤目状に区画されているのがわかります。

 また「古府の図」には、農家のような建物が「躑躅ヶ崎」の館の北側に密集して描かれています。

 武田勝頼が新府城に移った際(天正9年〔1581年〕12月)、勝頼は祖父信虎が永正16年(1519年)築造して以来本拠としてきた躑躅ヶ崎の館をはじめ家臣の屋敷などを全て破壊したというから、この「古府の図」に描かれている諸重臣たちや家来たちの屋敷地は、勝頼が新府城に移った以後においては屋敷が撤去されて空き地になっていたものと考えられます。

 では家来たちの屋敷地の南側にあった商工業者たちが住んでいた町々はどうなったかというと、その後「新府中」という新しい城下町の建設に伴って「新府中」に移っていった者たちもあったようです。

 つまり武田甲府(古府中)を支えた商工業者たちの一部は、江戸甲府(新府中)へ移って新しい城下町を支える商工業者となっていったのですが、それは古府中に残る「元柳町」や、「元穴山町」「元連雀町」「元三日町」「元川尻町」(新府中の「川尻町」が「緑町」となる)などの町名などでわかります。古府中の「大工町」は新府中の「工町(たくみまち)」になったのでしょう。

 古府中(武田甲府)の商工業者は、新府中(江戸甲府)を支える商工業者となったのです。

 おそらく古府中の町屋で最も賑わっていた(経済力を持っていた)のは、メインストリートである「柳町」(現在の「武田通り」)に店を開いていた商人たちであったでしょう。

 彼らは新府中においても「メインストリート」である「柳町通り」に商家を開く商人たちであったのです。

 勝頼が新府城に移る際に「躑躅ヶ崎」の館や家来たちの屋敷を全て破壊した後、それまで武田甲府を支えていた商工業者たちはそのままそこに留まっていた者が多かったようですが、甲府城や新府中の建設に伴ってその多くは新しい城下町へと移り、新城下町を支える商工業者となっていったことが推測されます。

 では武田の諸将たちが住んでいた屋敷地や、古府中に住んでいて新府中に移っていった商工業者たちが住んでいた土地はどうなったのか。

 考えられるのは畑地として近隣の百姓によって開墾されていったのではないか、ということ。

 両地図においてはそのあたりのことはよく分かりませんが、おそらく江戸時代においては古府中あたりの多くの土地は畑地の広がる景観が見られる地域ではなかったでしょうか。

 また「国指定史跡武田氏館跡〔やかたあと〕(躑躅ヶ崎館跡」)」と記された案内板もありました。

 それによると「武田氏館」は「躑躅ヶ崎館」とも呼ばれ、約70年間にわたりこの館一帯は領国の政治・経済と文化の中心地として発展。

 館の回りには家臣の屋敷が建てられ南方一帯に格子状に整備された道路に沿って城下町が開けていました。

 この館と城下町は、戦国時代の大名の本拠として第一級の規模と質を誇るものとも記されていました。

 その案内板には「中世の甲府」としてイラスト想像図が掲載されており、武田甲府(古府中)の様子をイメージできるようになっていました。

 上方中央に「一条小山」が「現甲府城跡」として描かれており、その東南に「新府中」(甲府城の新城下町)が造られたことになります。

 「躑躅ヶ館」(武田氏館)の屋形配置については、本殿近くに「躑躅ヶ崎館(武田氏居館)跡」の案内板があって、そこに配置想像図(東・中曲輪平面想像図)が掲載されていました。

 曲輪(くるわ)は主郭である「東・中曲輪」以外に、「梅翁曲輪」、「西曲輪」、「味噌曲輪」、「隠居曲輪」などがあり(「中世の甲府」イラスト想像図による)、それぞれが濠と土塀で囲まれていました。

 武田神社はそのうち「東・中曲輪」と「西曲輪」を敷地として、大正8年(1919年)に創建された比較的新しい神社でした。

 境内を見て回った後、大鳥居を潜ってお濠に架かる神橋を渡り、そこから南にまっすぐに延びている「武田通り」を南下していきました。

 

 続く 

 

〇参考文献

・『甲府市史別編Ⅲ 甲府の歴史』(甲府市役所)

・『甲府市史 通史編 第二巻 近世』(甲府市役所)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿