鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-野田尻から犬目を経て大月まで その16

2017-08-17 07:36:51 | Weblog

 

  「森武七墓碑」の案内板には次のように記してありました。

 
 「天保七年(一八三六)、郡内の農民により端を発し、甲斐一国規模の農民一揆となった天保騒動(郡内騒動)の中心的人物である。

 武七は郡内の農民たちと国中の米穀商へ交渉にいくときに頭取に選ばれ、農民を率いて笹子峠を越えたが、人数が増えて暴徒と化し頭取の指揮に従わなくなった一揆勢に見切りをつけ、途中で引き返した。

 その後、武七は罪を被って役人のもとに出頭し、天保七年十一月十六日石和牢に送られ同日牢死している。

 墓石は、高さ九五センチ、幅六五センチ、厚さ三五センチで、『的翁了端信士、天保七甲十一月十六日』と彫られている。」

 案内板のスペース上、なぜ郡内の農民が一揆を企てたのか。なぜ甲斐一国に規模が拡大したのか。なぜ交渉の対象が国中(くになか)の米穀商であったのか。なぜ人数が増えて暴徒と化したのか。「暴徒」の内容はどういうものであったのか。この天保騒動はどのような経過をたどり、どのように終わったのか、などといったことはわかりません。

 わかるのは、天保騒動が天保7年に起こったこと。郡内地方の農民が騒動の発端となったこと。米穀商に交渉に行く時、武七が一揆勢の頭取(指導者)となったこと。武七が指揮に従わなくなった一揆勢に見切りをつけて途中で引き返したが、後に自首して牢死したこと。一揆は甲斐全体に広がり、一揆勢は「暴徒」と化したらしいこと。

 この墓碑は、誰によっていつ建てられたのか、といったことも疑問として浮かび上がってきました。

 犬目宿の兵助(へいすけ)と下和田村の武七(治左衛門)が、国中の米穀商に交渉に赴く一揆勢の頭取(とうどり)であったわけですが、天保7年(1836年)当時、兵助が40歳、武七(治左衛門)が70歳。

 この天保騒動の背景には、天保4年(1833年)の天候不順と冷夏に始まる深刻な「天保飢饉」があるわけですが、なぜ郡内地方においてそれが「一揆」という集団行動の発生に至ったのか、またその一揆が甲斐一国にまたたくまに波及し、暴動化していったのか、詳しく知りたいと思いました。

 「森武七墓碑」からの周辺の景色を眺めた後、駐車スペースを通って中央自動車道の高架橋の下の坂道を上がっていくと、「市営グランド入口」のバス停があり、そこから西の方向に南面の岩盤が露出した岩殿山の特異な山容を見ることができました。

 その岩殿山の左手(南側)に大月があることになります。

 このバス停あたりの集落が武七が生まれ育った下和田村。

 下和田村からは葛野川や桂川を隔てて猿橋宿から大月宿あたりまでの風景(岩殿山を含む)を眺めることができ、また猿橋で桂川の深い渓谷を渡ることができることを考えると、もっとも生活上において関係の深かった甲州街道の宿場町は、猿橋宿であったと推測することができます。

 森武七の墓は、生まれ育った下和田村の集落を眺めるものではなく、桂川の向こうの山の中腹を、猿橋宿から大月方面へと延びる甲州街道を眺めるものでした。

 道を左折して(右折すれば百蔵山方向に向かう)葛野川に架かる百蔵橋を渡り、次に桂川の渓谷に架かる宮下橋を渡って、国道20号に戻りました。

 

 続く



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