鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

東北地方について思うこと その1

2012-03-10 06:56:54 | Weblog
 2006年から始めた私の取材旅行先は、関東甲信地方や九州、四国、北海道、私の郷里福井などであって、東北地方は含まれていませんでした。

 では東北地方には無関心であったかというとそうではなく、福島県の三春にある自由民権運動関係の資料館を、昨年夏に訪ねてみることを、昨年の3月(大震災)以前から予定していたし、「北前船」の調査のために東北地方の日本海側をやがて取材旅行に訪れたいという計画を抱いていました。

 東北地方は、縁あって、青春時代の3年間を過ごしたところであり、東北地方の多くの人々と接したところであり、忘れることのない出会いを経験した土地でもあります。

 私が教育実習を受けたのは仙台市内にある中学校であり、また1978年6月の宮城県沖地震も経験しました。私が住んでいた二階の部屋は帰ってみると傾いており、隣接する大家さんの家は断水しており、大家さんの一家とともに近所の家に避難して、しばらくの避難生活をした思い出があります。

 昨年3月11日の地震による揺れ(職場における)の大きさはそれ以来のものであって、「これは大変な地震だ、どこで発生したものだろう」と思っていたところが、それが東北地方の太平洋岸沖合いで発生したものであることを知って、神奈川県でもこれほどの揺れであったということは、震源地に近い東北地方においては相当の揺れであり、大きな被害が生じているはずだ、と直感したのは、私自身が1978年の宮城県沖自身を経験していたからでした。

 しかしその被害は私の想像を超えるものでした。

 まず、私は渋滞する国道のバスの中で、国民に向けての緊急の総理大臣の放送を聞きました。

 記憶しているのは、「東北地方で大地震が発生した」というような内容の次に、すぐに「原子力発電所は安全であり、心配はない」というコメントがあったことでした。

 そこで私は、初めて、東北地方の太平洋岸を震源とする大地震と東北地方の原発とを結びつけることができたのです。

 「そうだ、東北地方の太平洋側には原子力発電所があったんだ」。そして「大地震が発生して、政府がもっともその安全性を確認し、そしてまず全国民にその安全を訴えかけたかったのは原発のことだったんだ」と、その時、私の頭の中において原発のことが急浮上したのです。

 それまでは大地震と原発の安全性のことについて考えたことはほとんどなかったというのが正直なところです。

 原発から出される大量の放射性廃棄物の処理の問題についてはそれなりの関心を持っていましたが……。

 帰宅してテレビを見て、大地震による東北地方三陸海岸やその他の地域の巨大津波の映像に絶句しました。

 「これは大変なことになっている」

 というのが正直な感想でした。

 しかし、やがて震災報道によって、その映像(それはすでに地震や津波の発生から4時間ほど後にテレビで流されたものを私が見た映像)の、まさに巨大津波が襲来しているその場面、その時間帯に、実は多くの人々が津波の犠牲になっていることを知り、その犠牲者数(確認数)は日を追う毎にどんどん拡大していくばかりであることを、その後の新聞報道などで知ることになったのです。

 一方、原子力発電所は、というと、菅総理大臣のあの国民向けの原発安全アピールとは裏腹に、東京電力福島第1原子力発電所が、巨大地震と巨大津波によってどういうふうになっていったかは、我々がすでによく知っていることです。

 この神奈川県でも「計画停電」が始まり、私の家でも真っ暗闇の部屋でろうそくや電池式のランタンや懐中電灯を灯して、一家が集まって夕食を摂り、夕食後の夜を過ごしました。

 例年3月の暮れに予定している、かつての職場の仲間の「忘年度旅行」も、急きょ取りやめました。

 暑い夏も、エアコンをかけずに「節電」に心がけ、窓には沖縄ゴーヤの「グリーンカーテン」を施しました。

 大地震と原発事故によって気づいたことは、私たちが文字通りまるで「湯水のように」大量の電気を日々使用しており、それをあたりまえのように思っていたことでした。

 身の回りを見渡してみると、私たちはいかに多くの電気製品や電気を利用するもので囲まれていることか。

 自分が幼かった頃(昭和30年代半ば)を振り返ってみると、我が家にあった電化製品は、東芝製の真空管ラジオと、笠の付いた電球(各部屋・台所と便所、そして廊下と玄関前)ぐらいのものでした。

 しかし高度経済成長とともに家内にはいろいろな物が増え、そして中でも電化製品が増えていきました。白黒テレビ、カラーテレビ、レコード、テープレコーダー、冷蔵庫、洗濯機、電気掃除機などなど。

 小学校の「社会」の学習では、全国各地の石油コンビナート地域の名前を覚えさせられ、その石油コンビナートがある地域が日本の「先進地帯」であるかのように思わせられました。

 その石油コンビナートや工業地帯があるところは、そのほとんどが太平洋側や瀬戸内沿岸などであり、自分たちが住んでいる福井県などの日本海側は、「裏日本」という言葉に象徴されるように、「先進地帯」から遅れている地域であるかのような印象を、学校の「社会」の教科書によって植えつけられました。

 しかし、実は今になって振り返ってみると、石炭や石油などの化石燃料を燃やしてもますます不足する電力を補うために、「国策」として推進された「原子力発電所」の建設は、その石油コンビナートや工業地帯が存在する地域やその近くではなくて、福井県などの、いわゆる「先進地帯」ではない「後進地帯」であったのです。

 現在、福井県の若狭地方には、関西電力を中心とする14基の「原発」が存在するという。

 私は親に連れられて敦賀の気比海岸に海水浴に行き、また高校時代にはクラスの仲間でやはり若狭の高浜海岸に泊まりで海水浴に行ったことがあります。また家族旅行で三方五湖を訪れたり、小浜線などを利用して日本海側を急行電車で鳥取砂丘などへ行った記憶もありますが、あのリアス式海岸が続く若狭地方(嶺南地方とも呼ぶ)の風光明媚な風景の奥に、いつのまにか14基の原発が稼働していたことを知ったのは、あの東日本大震災の後の新聞報道によるものでした。

 福島県でも、福井県と事態は同じようなものでした。

 東北地方は、とくに明治維新後、かつて会津藩を中心として「反官軍」(「反薩長」・「朝敵」)の立場の藩が多かったために、明治政府から厳しい対応を受けたところが多い地域でした。その影響は、その後もずっと持続していったと言っていい。

 しかし、明治以前に目を注いでみると、かつて東北地方は、江戸や大坂の経済を支える重要な地域であったことは、銚子および利根川水運の実態を調べてみても、また「北前船」の実態を調べてみても、明らかなことであり、また福井県などの日本海側も、「北前船」のあの隆盛ぶりを見てもわかる通り、大坂や江戸などを中心とする日本の経済を支える重要な地域であったのです。

 近代化と工業化が進んで行くにつれ、日本海側や東北地方などは、農業や漁業中心の「後進地帯」であるような意識が、「国策」であるかのように植えつけられ、また多くの人々もそういった意識を持つようになっていった気がします。

 若い時の私も、実はそういった意識を知らず知らずのうちに植えつけられ、複雑な郷土意識を持つようになった一人であり、そして浪人してまでも「表日本」にある大学へと進学を目指した一人であったのです。



 続く


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