鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.12月「小田原~箱根湯本」取材旅行・小田原城下 その1

2007-12-16 08:08:29 | Weblog
 小田原駅前の「周辺案内図」を見て、だいたいのコースを確認。北条氏政・氏照の墓所を見て「お堀端通り」に出、城内に入ってから、大手門跡→松原神社→徳常院を経て東海道に入り、そこから西海子(さいかち)小路の小田原文学館に立ち寄り、ふたたび東海道に戻って板橋見附(みつけ)を経て箱根湯本に向かうコース。

 駅前(東口)をすぐに左折すると「セブンイレブン」の前に「新蔵(しんくら)」と刻まれた石柱。これは地名や町名の由来を刻んだもので、小田原市内各地に設けられていて、いたって参考になる。それを見つけて、目を通してみるだけでも、小田原の歴史がわかってきて楽しい。その「新蔵」の説明文によると、幕末には、この地に8棟の蔵が並んでいたという。

 その「セブンイレブン」の右手の路地を入って行くと、突き当たりに「小田原市指定史跡 北条氏政・氏照の墓所」。天正18年(1590年)の「小田原攻め」の後、5代城主氏直は高野山に追放され、4代氏政とその弟である氏照(八王子城など五つの支城の城主)は、城下の田村安斎邸で自刃。中央が氏政、右が氏政の夫人、左が氏照の墓と伝えられる五輪塔。手前に平たい石が敷かれていますが、これが「生害石」で2人はこの石の上で自刃したという。「生害石」の前には、誰が手向けたのか、きれいな花が供えられていました。

 そこから駅前の通りに出て、中央三井銀行小田原支店を過ぎたところで右折。そこが「お堀端通り」になる。右手に「上幸田」の石柱。由来が刻まれています。

 左手に「国指定史跡 小田原城跡」の案内板があり、「幸田門」についての説明が記してある。上杉謙信や武田信玄が「小田原攻め」をした時、この「幸田門」から攻めたのだという。門があったところは、「和洋中華 ふくや食堂」や「流行ボタン洋裁用品 白牡丹」、「アトリエラウトコーポレーション KAMUI」がある辺り。

 左手は「三の丸の土塁跡」ということで、老松などが繁ったでこぼこ道を進むと狭い階段があって小田原郵便局の横に出ました。そこから戻ると、老松が北東側にやや傾いて並んで立っているのに気付きました。右手下は駐車場になっていますが、かつてはお堀であったところ(小田原郵便局のあるところや局前の通りの手前〔城側〕もかつてはお堀)。途中、道を塞ぐように太い松の木がどっしりと立っている。亀の甲羅のような木肌は、触ってみるとほのかに温かいものでした。

 右手の「お堀端古書店」(「本は心の糧」との看板が掛かっている)を過ぎると、「国指定史跡小田原城跡 二の丸東堀」のガイド・パネル。

 小田原城は、3代将軍徳川家光の乳母春日局(かすがのつぼね)の子、稲葉正勝が寛永9年(1632年)に城主となって大規模な工事を行い、石垣を備えた近世城郭として整備されたのだという。江戸時代の石垣は今よりも高いものであったのが、大正12年(1923年)の関東大震災で崩壊し、昭和初年に復元されたのが今の石垣であるとのこと。

 お堀に架かる、朱色の欄干が目に鮮やかな「学橋」を渡って「二の丸」へ。渡って右手に「明治天皇行幸所」の碑。ここにはかつて足柄県庁があり、明治6年(1873年)、明治天皇は箱根宮之下温泉から帰る途次、この足柄県庁に立ち寄ったのだという。8月28日のことでした。

 広場に入っていくと、正面に見えた建物は「小田原城歴史見聞館」でした。そこから戻って学橋の手前を右折。お堀に沿った「大手筋登城巡路」を行くと、突き当たり左手に「小田原城二の丸隅櫓」。やはり関東大震災で石垣ごと堀の中に崩落。昭和に入って復元されたものでした。この櫓(やぐら)には武器が格納されていて、有事の際はここから城下を展望し、敵が攻めて来た場合は、ここから矢や鉄砲を放つ防衛上の重要な施設でした。

 この二の丸の正面入口は、実は先ほど渡ってきた「学橋」ではなく、現在復元工事が行われている「馬出門」。この「馬出門」から「銅門」(あかがねもん)を通過するのが、江戸時代の正規の登城路でした。

 右手の広場は、実は「二の丸御殿跡」でした。ガイドパネルによると、小田原城には2つの御殿があった時代があって、1つは将軍の旅宿専用の「本丸御殿」。もう1つが、藩主の居館があり行政を行う政庁としての役割をもつ「二の丸御殿」。

 この広場には、かつてその「二の丸御殿」があったのです。「御屋形(おやかた)」とも言ったようです。

 歴史見聞館の前をさらに進むと、左手に一本の大きな樹木。目を引いたのは、その根元近くの幹の姿。多数の太い根がねじれて寄り合わさって、ぐいと上に伸びているような、たくましい、何か原初的な生命力を感じさせる大木。イヌマキという木で、「小田原市指定文化財天然記念物」になっていました。

 説明によると、イヌマキは、関東南部以西の海岸地帯の森林に多く自生する、暖温帯林を代表する常緑の高木。この小田原城跡のイヌマキは、市内で最大のイヌマキで、幹回り4.5m、株の周囲約6m、樹高は約20mだという。

 石段を上がると右手に「小田原城と小田原合戦攻防図」という大きな案内板。小田原合戦(小田原攻め)は、天正18年(1590年)の4月から始まり、3ヶ月余に及んだ攻防戦。豊臣方は水陸合わせて約22万。小田原城には、北条勢およそ6万人が立てこもりました。7月、5代城主氏直は城を出て降伏を申し入れ、自らの命と引き換えに、篭城した一族・家臣や領民らの助命を願い出ますが、4代氏政やその弟氏照らは自刃させられることになります。その墓や自刃した時の「生害石」は、先ほど駅前で見たところ。

 図を見ると、海には、毛利・九鬼・加藤・長宗我部(ちょうそかべ)の水軍が浮かび、陸には豊臣方の軍勢が小田原城を取り囲むように布陣しています。徳川家康は、酒匂川をバックに布陣し、織田信雄(のぶかつ)は大雄山線の五百羅漢駅付近、豊臣秀吉は石垣山城(本営はもとは湯本の早雲寺でしたが、6月26日からここに移る)。秀吉は、この石垣山の本営に、淀殿や参陣諸将の女房衆を召し寄せ、また千利休らの茶人や芸能者を呼んで宴を尽くしたという。小田原城内の悲痛な状況とは対照的に、余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)の秀吉方の状況を察することが出来ます。

 本丸東堀に架かる朱色の欄干の「常盤木橋」を渡り、コンクリートの階段を上って「常盤木門」を潜る。この門は本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも最も大きく堅固なものだという。これも再建されたもの。

 常盤木門を出ると、正面に、天守閣の白壁が差し上った朝日に輝いていました。この天守閣の下の広場が「本丸広場」で「本丸御殿」があったところ。

 この天守閣も、昭和35年(1960年)に、市制20周年の記念事業として再建されたもの。もともとの天守閣も本丸御殿もその他の建物も、元禄16年(1703年)の大地震でそのほとんどが倒壊・焼失し、天守閣は宝永3年(1706年)に再建(この翌年に富士山の宝永大爆発(「宝永の砂降り」)が起こっています)に再建されたものの、本丸御殿はついに再建されずじまいでした。

 この本丸広場は、現在動物園があるところで、春は桜の花見の名所となり、市民の憩いの場所になっています。私も子どもたちと、また仲間たちと何度か訪れたことがあり、馴染みのあるところですが、いつも駅の方からやってくるので、常盤木門の方から上がってきたのは今回初めてです。早朝なので、早朝ウォーキングをしている人がちらほら見えるだけでいたって静かです。

 本丸左手の坂を下り、「こども遊園地」手前を左折して坂をさらに下ると、右手に「報徳二宮神社」。右折すると、「小田原城山峯曲輪北堀」案内板。この北堀には水がない。つまり空堀(からぼり)。石垣もない。石垣を用いない土塁と空堀だけの堀で、戦国時代の城の原形をよく留めている貴重な遺構だという。もともとはもっと深い堀であったらしい。ちょうど天守閣の裏手になる。

 回廊を潜ると、右手が報徳二宮神社。御祭神はもちろん二宮尊徳(通名金次郎)。早朝だというのに、高校生のカップルがお参りをしていました。大学受験合格の祈願のよう。

 参道入口の方へ向かうと、右手に二宮金次郎像。見慣れたあの姿(私の出身小学校にも玄関付近にありました)。この像は、昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位御大礼の記念として神戸の中村直吉氏が寄進したもので、制作者は三代目慶寺円長。像の乗っている台の右側面には、「御大礼記念 昭和三年十一月十日 兵庫実践少年団長中村直吉建之 少年団日本聯盟総長子爵後藤新平書」と刻まれていました。同じ像(ブロンズ像)は約1000体造られたとのことですが、戦時中に供出され、残っているのはこの一体のみだという。高さはちょうど1m。

 取材旅行をしていると、各地の小学校で、二宮金次郎の像を見掛けますが、あれはこの「元祖」二宮金次郎像とは異なるのだ、ということを初めて知りました。

 小田原(近辺も含めて)出身で歴史上有名な人物と言えば、やはりこの二宮尊徳が筆頭に挙げられるでしょう。尊徳の「報徳仕法」や、その思想については、幕末を考える時に、おさえておく必要があると思っています。

 途中、左手少し入ったところに、「二宮尊徳先生遺訓」の刻まれた石碑がありました。

 そこには、

 「譲って損なし 奪って益なし」

 とありました。


 続く


○参考文献
・『神奈川県史 通史編3 近世(2)』(第四章 藩政の推移」山中清孝・神崎彰利


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