郡内一揆勢の頭取(下和田村の武七)と代官所側の「郡中惣代」との交渉は、どのようにまとまったのか。
『並崎の木枯』には次のように記してあります。
「壱駄ニ付(つき)壱両弐分位ニ引下ヶ貰度(もらいたき)段相談取極(とりきめ)…」
1駄につき2両1分というのを1両2分ほどに引き下げてもらいたいと相談を取り決めた、というのです。
8月の12、13日以前は1駄につき1両3分2朱ほどであったから、それよりも低い値段にするようにと武七は主張したのです。
1駄につき2両1分でしか米を売らないとしたのは熊野堂村の奥右衛門であると見なされた(従って一揆を起こす直前に黒野田宿名主の泰然と武七が奥右衛門にところへ交渉に赴いたという)から、郡中惣代の二之宮村文平と八田村富右衛門の二人が、武七が主張する一駄につき1両2分ほどの値段に引き下げるように熊野堂の奥右衛門と交渉する方向で話がまとまった、ということであると思われます。
『大月市史』においては、熊野堂村の奥右衛門と川田村の駿河屋庄兵衛に対し、米1駄1両3分2朱で米3000俵を郡内へ売り渡すようにとの交渉を、両郡中惣代にあたってもらうことで相談がまとまりかけた、とあります。
米1駄1両2分か、あるいは以前の1両3分2朱か、そのあたりの値段で郡中惣代と奥右衛門ら米穀商との交渉がまとまれば、これ以上一揆勢が国中に進入して奥右衛門宅の「打ちこわし」はしないという約束であったでしょう。
郡内一揆勢は、斧(おの)、鉞(まさかり)、鋸(のこぎり)など、「打ちこわし」に必要な道具を携行していましたが、それは示威(じい)のためであり、奥右衛門らが米価を引き下げるなど交渉が成功すれば、「打ちこわし」を何が何でも実行するという姿勢ではなかったものと推測されます。
「一揆」という形で相手に圧力を掛け、交渉を有利に進めて、相手に要求をのませるという戦略。
二人の郡中惣代はその交渉妥結を受けて、すぐに熊野堂の奥右衛門宅に向かおうとしたであろうし、またその交渉結果を聞いたであろう代官手代松岡啓次も石和代官所に直行したと思われます。
しかし、このあたりから状況は一変することになりました。
『大月市史』によれば、初鹿野村の義右衛門他約300人ばかりの農民が押し寄せてきて大騒ぎとなり、三軒の穀屋(米穀商)がたちまち打ちこわされたという。
その駒飼宿の「三軒の穀屋」とは、穀屋(小左衛門※『大和村誌』では「弥右衛門」とも)・柏屋(栄兵衛)・梅屋(市兵衛)。
郡内一揆勢の頭取(武七・兵助)の思惑とは異なって、まず駒飼宿において「打ちこわし」が発生してしまったことになります。
このことについては『並崎の木枯』には、勝沼宿において「頭取」が次のように述べたと記されています。
「頭取申候者(もうしそうろうは)駒飼宿ニ而(て)狼藉(ろうぜき)致候ニ付(つき)、迚(とて)モ穀物下直(値)ニ可致(いたすべき)掛合行届(いきとどき)申間敷(もうすまじく)、此上(このうえ)甲州勢加(くわわ)リ候而(そうらいて)ハ如何様之義仕候(つかまつりそうろう)も難計(はかりがたく)候間、郡内勢ハ是ヨリ引取方可然(しかるべく)…」
駒飼宿で打ちこわしが発生してしまったから、とても米の値段を下げるための交渉はうまく進まないだろうし、この上さらに甲州勢が加わってきたらどのような事態になるかもわからないので、郡内勢はこの勝沼宿から引き返した方がよいと判断した、ということ。
郡内勢が酒飯を提供されて休息しているところに新たに甲州勢が加わって来たことによって、三軒の米穀商を打ちこわすという「狼藉」が発生し、事態は一変したというのです。
初鹿野(はじかの)村は駒飼宿や鶴瀬宿近くの村で、初鹿野村からやって来た300人ほどの人々は、郡内勢が笹子峠を越えて駒飼宿にやって来たのを知って、いわば「加勢」という形で集まってきたものと思われます。
国中(くになか)の米穀商に対する反発は、郡内の人々だけではなく国中においても高まっていたことが、このことから伺うことができます。
天保7年(1836年)8月21日(旧暦)の午後、郡内一揆勢に初鹿野村から駆け付けて来た人々、また駒飼宿の人足たちなどをも加えた一団は、次の宿場である鶴瀬宿へ押しかけ、鶴瀬の口留番所を押し通って勝沼宿に至り、その頃には各宿の人足や近辺村々の村人たちが続々と加わって来たことによって、武七や兵助など郡内一揆勢の頭取の思惑を越えて、各地で次々と「打ちこわし」が発生していくことになりました。
続く
〇参考文献
・『山梨県史 資料編13 近世6上』
・『大月市史』
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