小諸図書館を出たのは13:30前。そこから荒町の通りを過ぎて、ふたたび与良町に入りました。向かったのは、朝、立ち寄った「市立小諸高濱虚子記念館」。
記念館に入ると、「虚子の散歩道」マップが掲示されており、それを何気なく見てみると、高濱虚子記念館の左隣に「小山家」とあり、その北国街道を隔てた向かい側に「小山本家」とありました。
そして先に裏手で見た古いお寺は、「長勝寺」という名のお寺でした。
このマップで、私は小山本家の場所を知ることになりました。小諸停車場から北国街道に出てそこを右折し、荒町から与良町に入って、その町並みの右手に小山本家、つまり兆民の愛弟子の一人小山久之助の実家があったのです。
記念館の方にお聞きしたところ、「通りに出て荒町方面へ向かって左手、大きな門と白壁の塀がある家があるけれど、それが小山本家ですよ」とのこと。
記念館の展示物を見てから、高浜虚子が疎開のために一時住んでいた家の内部を見学し、それから妙雲山長勝寺に立ち寄って、北国街道に出て、そこを左折すると、たしかに右手に長い白壁の塀と立派な門を持つ屋敷がありました(高浜虚子記念館の前からは、街道左手の位置)。表札は掲げられていません。
路地をずんずん入っていって、やがて小山本家の裏手の方へ出ました。裏手は広い畑か草むらのようになっています。その畑と草むらの向こう側に、小山本家の裏側が見えました。白壁の大きな蔵も見えます。2階建ての屋敷は昔のままではないようで、おそらく建て直されたもののように思われます。その左隣(裏手から見て)も大きな屋敷で大小の白壁の蔵が見えます。
本家の蔵には、小山家の家紋である「五本扇」があるのが、遠目に見えます。
白壁がやや剥れた土蔵の横を通って、北国街道に出て左折。すると、左手に、「帝国中牛馬会社 小山五左衛門」と書かれた一枚板の看板がありました。
この「小山五左衛門」というのは、小山本家の分家である「山五」の四代目で、明治5年に「中牛馬会社」という運送会社を興した人で、信越線が全通した明治26年(1893年)には、社名を「帝国中牛馬会社」(「帝中」と略称される)と改め、社屋を小諸停車場前に移して、事業を拡大していった人物。
左手には「小山測量」、「新山五ビル」というのもありました。「山五」とは、「小山五左衛門」のこと。代々小山五左衛門で、「山五」としたのでしょう。
「やまいちや」というのもありましたが、これは「山一屋」ということであって、これも小山本家の分家筋にあたるはずです。
『わが回顧録』(小山宗一)によると、第四代の小山五左衛門は、明治10年(1877年)に、浅間山麓の植林(カラマツ植栽)事業にも取り組んだらしい。
小諸町が誕生したのは明治9年(1876年)。その年、与良町・荒町・本町・市町(小諸宿四町)、それに旧藩士の居住地を合わせて、小諸町が出来ました。街道筋や武家町・小諸城を除いては、作場(田畑)や山林が周囲に広がっていたようです。
小山本家の分家には、「千俵取り」と言われた大地主で「穀屋清左衛門」、略して「穀清」として近隣に知られた小山清左衛門がいましたが、高浜虚子は、小諸与良町のこの「穀清」の屋敷内に疎開していました。
先の「虚子の散歩道」マップにあった記念館の左隣の「小山家」がそれに当たるのでしょう。
小山本家の第15代は小山盛重で、元和3年(1617年)に武士を辞めて、この地に住まうようになりました。
小山一族の財力はそうとうなもので、『小山松寿伝』によれば、「お金のことは心配しなくたっていい。オレには小諸が付いているんだから」というのが、小山久之助の口癖であったという。
この小山松寿、明治25年(1892年)の4月下旬(兆民がやってきた2ヶ月後)に、東京の小山久之助を頼って上京しますが、その経路は、小諸→〈汽車〉→軽井沢→〈碓氷馬車鉄道〉→横川→〈鉄道〉→上野→麹町五番町、というものでした。
続く
○参考文献
・『小諸商人太平記』櫟出版部(櫟)
・文中で紹介した各本
記念館に入ると、「虚子の散歩道」マップが掲示されており、それを何気なく見てみると、高濱虚子記念館の左隣に「小山家」とあり、その北国街道を隔てた向かい側に「小山本家」とありました。
そして先に裏手で見た古いお寺は、「長勝寺」という名のお寺でした。
このマップで、私は小山本家の場所を知ることになりました。小諸停車場から北国街道に出てそこを右折し、荒町から与良町に入って、その町並みの右手に小山本家、つまり兆民の愛弟子の一人小山久之助の実家があったのです。
記念館の方にお聞きしたところ、「通りに出て荒町方面へ向かって左手、大きな門と白壁の塀がある家があるけれど、それが小山本家ですよ」とのこと。
記念館の展示物を見てから、高浜虚子が疎開のために一時住んでいた家の内部を見学し、それから妙雲山長勝寺に立ち寄って、北国街道に出て、そこを左折すると、たしかに右手に長い白壁の塀と立派な門を持つ屋敷がありました(高浜虚子記念館の前からは、街道左手の位置)。表札は掲げられていません。
路地をずんずん入っていって、やがて小山本家の裏手の方へ出ました。裏手は広い畑か草むらのようになっています。その畑と草むらの向こう側に、小山本家の裏側が見えました。白壁の大きな蔵も見えます。2階建ての屋敷は昔のままではないようで、おそらく建て直されたもののように思われます。その左隣(裏手から見て)も大きな屋敷で大小の白壁の蔵が見えます。
本家の蔵には、小山家の家紋である「五本扇」があるのが、遠目に見えます。
白壁がやや剥れた土蔵の横を通って、北国街道に出て左折。すると、左手に、「帝国中牛馬会社 小山五左衛門」と書かれた一枚板の看板がありました。
この「小山五左衛門」というのは、小山本家の分家である「山五」の四代目で、明治5年に「中牛馬会社」という運送会社を興した人で、信越線が全通した明治26年(1893年)には、社名を「帝国中牛馬会社」(「帝中」と略称される)と改め、社屋を小諸停車場前に移して、事業を拡大していった人物。
左手には「小山測量」、「新山五ビル」というのもありました。「山五」とは、「小山五左衛門」のこと。代々小山五左衛門で、「山五」としたのでしょう。
「やまいちや」というのもありましたが、これは「山一屋」ということであって、これも小山本家の分家筋にあたるはずです。
『わが回顧録』(小山宗一)によると、第四代の小山五左衛門は、明治10年(1877年)に、浅間山麓の植林(カラマツ植栽)事業にも取り組んだらしい。
小諸町が誕生したのは明治9年(1876年)。その年、与良町・荒町・本町・市町(小諸宿四町)、それに旧藩士の居住地を合わせて、小諸町が出来ました。街道筋や武家町・小諸城を除いては、作場(田畑)や山林が周囲に広がっていたようです。
小山本家の分家には、「千俵取り」と言われた大地主で「穀屋清左衛門」、略して「穀清」として近隣に知られた小山清左衛門がいましたが、高浜虚子は、小諸与良町のこの「穀清」の屋敷内に疎開していました。
先の「虚子の散歩道」マップにあった記念館の左隣の「小山家」がそれに当たるのでしょう。
小山本家の第15代は小山盛重で、元和3年(1617年)に武士を辞めて、この地に住まうようになりました。
小山一族の財力はそうとうなもので、『小山松寿伝』によれば、「お金のことは心配しなくたっていい。オレには小諸が付いているんだから」というのが、小山久之助の口癖であったという。
この小山松寿、明治25年(1892年)の4月下旬(兆民がやってきた2ヶ月後)に、東京の小山久之助を頼って上京しますが、その経路は、小諸→〈汽車〉→軽井沢→〈碓氷馬車鉄道〉→横川→〈鉄道〉→上野→麹町五番町、というものでした。
続く
○参考文献
・『小諸商人太平記』櫟出版部(櫟)
・文中で紹介した各本
もう何年か前、小諸に、食堂こくせいと言う店がありました。
小学生の子供が、「昨日、食堂行ってきた?うん こくせい」何て言葉遊びをしていて何のことかと思っていましたが、「こくせい」という屋号に込められた家系の誇りがあったんですね。初めて知りました。
またお出かけ下さい。
小諸に「食堂こくせい」はございません。18号バイパスの小諸警察署の近くにある食堂は「古久清食堂」です。看板の文字をよくご確認ください。ひらがなで書かれてはおりません。漢字です。
「×× こくせい」を子供の言葉遊びにとどめず、古久清食堂で生計を営んでいる(清左衛門のひ孫)がいるにもかわらず、食堂にとりマイナスイメージになる興味本位の投稿は当事者にとり非常に失礼です。
(かもしかという名前の投稿です)
屋号については「穀屋」、「穀清」または「古久清」です。小山宗家からの直接の分家ではなく、遡れば、宗家→油屋→大黒屋→古久清となり、宗家からみれば3段目の分家になります。なお、小山松寿は油屋から出た人です。(山一家という屋号かどうかは確認できません。)
ご参考(穀清の歴代当主)
(1) 清太郎見治・・(元文3年~文政4年、1738年~1821年)初代(大黒屋からの分家)
(2)清五右衛門正信・・(宝暦11年~嘉永2年、1761年~1849年)掛け軸の肖像画あり
(3) 清左衛門美矩・・(文化5年~明治5年、1808年~1872年)
漆器、陶器などの箱書きに名前残る。
(4)清左衛門美直・・(嘉永4年~大正15年、1851年~1926年)
この時代に大地主となる。
高浜虚子が戦時中、小諸に疎開することになったのは、小山栄一(清左衛門の孫)の人柄によるものと思います。家屋敷があったこと、農地解放で取られましたが、かなり自作田畑がありましたので食糧難の時代にもかかわらず、なんとか食べ物は確保できました。栄一の死後かなり経てから今の小諸高浜虚子記念館ができましたが、虚子が栄一に残した句屏風などの作品がベースになっております。以上補足させていただきます。
鮎川俊介