鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.7月取材旅行「日比谷~半蔵門~鍛冶橋」 その最終回

2010-07-21 06:56:35 | Weblog
 「数寄屋橋」交差点から三原橋に向かったのは、『江戸城を歩く』の「銀座・京橋」のコースに従ったからですが、「銀座四丁目」交差点を過ぎるとまもなく三原橋があります。「三原橋」という以上は、かつてここには橋が架かったていたことになりますが、その三原橋が架かる川が「三十間堀川」で、銀座の東の境でした。

 三十間堀川は、戦後に埋め立てられて、現在は「三原通り」となっています。

 この三十間堀川から東は「築地」地区。銀座が出来てからも続いていた神田川開削工事などの土砂で埋め立てを進めたのがこの築地地区だという。

 三原通りを歩いて見ても、かつて三十間堀川であったという面影はまるでありません。

 『復元江戸情報地図』を見てみると、この三十間堀川が木挽橋を潜って、やがてお堀とぶつかるところの南側に、そのお堀に架かる汐留橋がある。そのお堀を内部に向かって進めば、芝口橋、難波橋、土橋が現れる。この芝口橋の上の通りが東海道で、その東海道を東北に進めばやがて京橋がある。逆方向へ進めば金杉橋に出る。

 その三原橋からさらに南東に進めば万年橋があり、そこにも堀川が流れています。

 というふうに堀川が、銀座・京橋地区には、あちこちにあったのです。

 三原橋で左折して、「三原通り」をしばらく進み、途中で左折して「中央通り」(旧東海道)に出て右折。「京橋」のところに差し掛かったのが13:09。

 ここはすでに今までの取材旅行で何度も通過しています。

 京橋のあったところには、記念碑と「きやうばし」と書かれた欄干が残っていますが、この「きやうばし」と書かれた石の欄干は明治初期に作られたものだという。

 この京橋付近の風景が描かれているのが、『百年前の東京絵図』のP58~59の「旧京橋の図」。明治27年(1894年)に完成した「東京府庁」が奥に描かれているから、この絵が描かれたのはそれ以後ということになり、解説によると、明治34年(1901年)がこの絵が描かれた年であるようですが、この時には、もうこの絵に描かれている京橋(明治8年〔1875年〕に出来た石橋)はなくなっていて新しい京橋が造られていたようです。

 堀は京橋の左側で右側へと湾曲し、やがて中之橋、比丘尼橋を潜り、外堀へと合流します。その堀川を荷舟が中之橋の方へと向かっていますが、その中之橋を潜り、比丘尼橋を潜って外堀に出たところで左折すれば、やがて数寄屋橋の河岸へと至るのです。

 旧京橋の上の通りが東海道になりますが、その橋の上を鉄道馬車や箱馬車、野菜らしき荷をいっぱいに積んだ大八車などが行き交っています。この絵に見える京橋の欄干は、現在も一部残っています。

 この京橋付近も、かつての面影は、あの数寄屋橋付近と同様、まるで残っていません。

 京橋を過ぎて、「鍛冶橋通り」に出たところで左折。すぐに外堀通りと交差する「鍛冶橋」交差点に出ますが、それを渡った左手に「鍛冶橋跡」と記された案内板がありました。

 それによると、この「鍛冶橋」交差点とJR線との間に、かつて江戸城の外堀があり、そこには鍛冶橋という橋が架かっていました。その鍛冶橋の先には江戸城の外郭門の一つである鍛冶橋御門があり、門内には南北の町奉行所が移転を繰り返したという。

 門前には、幕府の御用絵師の狩野家が屋敷を拝領し、この屋敷は鍛冶橋狩野家と称されたとのこと。

 この鍛冶橋は、昭和20年代に入っても残っていましたが、外堀が戦災の瓦礫(がれき)によって埋め立てられたことにより、鍛冶橋はその役割を終えたという。

 つまり、鍛冶橋の架かる外堀は戦後まで残っていたものの、戦災の瓦礫によって外堀が埋め立てられたことにより鍛冶橋はなくなったということですが、ということは、この「鍛冶橋」交差点のある外堀通りの下には、戦災の瓦礫が埋まっているということになります。

 この鍛冶橋を渡って鍛冶橋御門を入った左手にあったのが、土佐藩山内家の上屋敷(鍛冶橋藩邸)。現在は東京駅に続くJR線と「東京国際フォーラム」があるあたり。

 ここも、中江兆民と関係するところです。

 銀座線の京橋駅に戻る途中、通り沿いに「千葉定吉道場跡」と記された案内板を見つけました。

 千葉定吉は、北辰一刀流剣術の創始者である千葉周作の弟。このあたりにその千葉定吉の道場があったのです。その道場は「小千葉道場」などと称されていたようだ。新材木町の「狩野屋敷」と呼ばれていたあたりにこの道場はあり、土佐から出て来た坂本龍馬は、この道場で千葉定吉の息子である千葉重太郎や、定吉の娘である千葉さななどから、北辰一刀流剣術を学んでいたのです。

 ここから鍛冶橋および鍛冶橋御門内の土佐藩邸(上屋敷・鍛冶橋藩邸)は、ほんの目と鼻の先でした。


 終わり


○参考文献
・『百年前の東京絵図』山本駿次郎(小学館文庫/小学館)
・『復元江戸情報地図』(朝日新聞社)
・『江戸城を歩く』黒田涼(祥伝社文庫/祥伝社)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿