鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

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2010.7月取材旅行「日比谷~半蔵門~鍛冶橋」 その8

2010-07-20 06:36:43 | Weblog
 桜田門の豪壮な渡櫓門(わたりやぐらもん)を潜って左折し、高麗門(こうらいもん)を潜ると、両側に桜田濠が広がります。桜田濠をまたぐ土橋を渡ると、そこが先ほど通った桜田門外の「内堀通り」となり、ここでようやく江戸城の内堀をほぼ一周したことになります。

 外堀もその大部分を一周していますから、内堀と外堀をこれで大体歩いたことになるわけですが、外堀はその半分ほどが埋め立てられ、その原形が失われているところが多いのに対して、内堀はかなり昔のままに残されているように思われました。

 ベアトの江戸城周辺を写した写真のうち、その写真から撮影地点をほぼ特定できたのは内堀の周囲であったことが、そのことを証明しています。それに対して外堀の周囲は大変な様変わりをしていて、撮影地点を特定するのが困難でした。撮影地点にはビルが建っているなどということもありました。

 桜田門外に出て、内堀通り(晴海通り)を有楽町駅の方へと進み、「祝田(いわいだ)橋」交差点で右折して日比谷公園に入りました。右折すれば、「祝田橋」で内堀(日比谷濠)を渡って、通りは「皇居外苑」を突っ切っていきます。

 やがて右手に池が現れましたが、これが「心字池」。もとはこの池のあたりは堀であったという。

 実際、『復元江戸情報地図』を見てみると、日比谷御門があって、その土橋の南側は御堀になっています。では日比谷公園のあたりには何があるかというと、そこには「桜田御用屋敷」と「「長門萩藩松平大膳大夫慶親〔毛利〕三十六万九千石余」の上屋敷や「肥前佐賀藩松平肥前守直正〔鍋島〕三十五万七千石」の上屋敷などがある。

 つまり「薩長土肥」のうち、長州と肥前の上屋敷がここにはあったのです。

 「日比谷見附跡」があり、その石垣の上に上がることができました。そこは土手の上になっており、土手の上には遊歩道があってベンチが並んでいます。

 見附跡の石垣の上のベンチに座って、かつてはお堀であったという「心字池」を見下ろしながら休憩かたがた携帯してきた弁当(昼食)を食べました。

 12:15に出発。

 「日比谷」交差点を渡って左折し、「晴海通り」を渡りました。有楽町駅の駅前広場に出ましたが、ちょうど参議院議員立候補者への自民党前総裁の応援演説が終わったところに遭遇し、駅前広場はその聴衆や関係者などでごった返していました。

 少し人込みが解消した後に、駅前広場に出ると、そこには石垣が置いてあるところがあって、「南町奉行所跡」の案内板がありました。

 その有楽町駅前広場から「数奇屋橋」交差点に出て、「晴海通り」を左折。「並木通り口」、「銀座四丁目」交差点を通過して、「三原橋」へと向かいました。


 続く


○参考文献
・『樋口一葉と甲州』(山梨県立文学館)
・『史実を歩く』吉村昭(文春新書/文藝春秋)
・『復元 江戸情報地図』(朝日新聞社)

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