鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

青い朝顔の咲く日除け(グリーンカーテン)のことなど

2009-09-25 06:00:00 | Weblog
 あの朝顔のグリーンカーテンが、江戸時代の北国街道ないし全国の街道筋の人家の軒先にあったものかどうかは、私はよく知らない。

 しかし、街道筋の人家の軒先に、季節ごとに花々が美しく咲いていた可能性は十分にあると思っています。

 その花々は自然に咲いていたものではなくて、おそらくその人家の人たちが植えたもの。それは場合によっては非常に丹精をこめたもので、それらの花々は、自分たちが鑑賞するものであるのはもちろんのことですが、それ以上に、街道を行き来する人々を意識したものでした。つまり街道を行き来する人々が目にしてくれることを意識したものでした。

 茶店であれば、その花々の美しさに足をとめ、その花々越しに見えるまわりの景観を堪能するために一服しようという旅人を、引き込むための装置でもありました。

 その花々が、まわりの雑草を採ったり、水撒きをしたり、彩りの配置を工夫したりと、要するに丹精を込めたものである場合はとりわけ、それを鑑賞し、愛(め)でてくれる旅人と、その主人との間には、花々をめぐっての会話が長々と交わされたかも知れない。

 振り返ってみると、魅力的であった街道なり散策路の記憶を甦らせてみると、それらの景観にはほとんど例外なく美しく咲く花々があったように思われます。

 座間市内小松原の畑灌桜(はたかんざくら)が植わったかつては灌漑用水路であった道筋がそう。東海道の三島市内を貫流する源兵衛川に沿った道筋がそう。川崎市の五ヶ領用水沿いの道筋(大山街道と交差するところを中心として)や甲州市塩山の中萩原(一葉の父母のふるさと)の畑道もそうでした。

 あの道筋に咲いていた花々は、たんに道筋の人家の人たちが自分の観賞用として植えたものではなく、道を歩く人々の目を意識して植えたものでした。

 自分が楽しむばかりか、道行く人々にも目を留めてもらいたい、そういう意識を感じさせました。それは道を愛する気持ちやその道筋の景観を愛する気持ちと通じているように思われました。

 つまり道行く人々、それは通勤客であったり通学生徒であったり、また他所(よそ)からやってきた旅人や観光客であるわけですが、それらの人々を意識して目を留めてもらおう、くつろいでもらおう、美しさを味わってもらおう、とした時に、全体としての街並みなり、あるいは通りとしての魅力が生まれるものだということをあらわしているように思われます。

 花には、とくにそういう力がある。

 そう私には思えます。

 桜や梅の花、いちはつの花、菖蒲や百合の花、紫陽花(アジサイ)の花、朝顔の花、芙蓉(ふよう)の花、コスモスの花、その他の野草の花々……。

 花々の美しさは、たしかに通りを走り抜ける車の窓からも味わうことができますが、何といっても歩いてみた時にそれをより一層実感することができます。

 かつて徒歩で旅した人たちは、その旅の道筋において、いたるところで花々を鑑賞し、その美しさに旅の疲れを癒したものと思われます。

 宿場に入れば、やはり旅の疲れを癒すさまざまな装置・仕掛けが至るところに施されており、軒先に咲く花もその重要な一つでした。

 草花や木々の緑がそういうものであったことを、私は海野宿や小諸宿で見掛けた、青い朝顔の咲く「グリーンカーテン」で再認識したのです。

 信州の夏は、たしかに30℃を超える暑いものでしたが、歩き回ってもあまり汗はかかない。空気が乾燥している(湿度が低い)からですが、でも、やはり暑いことは暑い。しかし、街道の宿場町に入って目にするグリーンカーテンは、すがすがしさと涼しさを私に感じさせました。ホッとするのです。しかも景観としてハッとするほど美しい。

 グリーンカーテンは、その家に住む人たちにも、それなりの涼感効果をもたらしますが(おそらく2、3℃ほどは涼しくなるでしょう)、それを外側から見る人に対しても涼感効果をもたらします。

 そしてそういった軒先のグリーンカーテンが各所に点在したり、並んでいる時、それが街としての魅力的な景観を作り出す。

 青い朝顔の日除け(グリーンカーテン)などは、とくに日本的情緒を醸(かも)し出すものだ、と私には思えました。

 「街(町)おこし」において、花は、一つの重要なポイントであるかも知れない。

 歩いて楽しい道とは、それなりの歴史が詰まった、沿道の人々の愛情が感じられる道。

 車にとっては便利かも知れないパイパスは、歩くものにとっては、ほとんど魅力のないとっても疲れる道であることは(歩道が整備されており、それが近道であるにもかかわらず)、そこを延々と歩いてみたことがある人にとっては、おそらく自明のことであるでしょう。

 見る(観る)ことを意識するとともに、見られる(観られる)ことを意識した時、町はその魅力を放ちはじめるのではないか。

 特に車ではなく、歩く人々を意識した時に、つまり人々をいかに歩かせるか、歩く人々をどう取り込むか、そういった人々をどう迎えるか、といったことを意識した時に、もしかしたら町(街)の魅力なり活性化が生み出されてくるのではないか。

 そういったことを、青い朝顔の咲く「グリーンカーテン」の景観を思い出しながら、考えてしまいました。


○参考文献
・『まちづくりの実践』田村明(岩波新書/岩波書店)
・『失われた景観 戦後日本が築いたもの』松原隆一郎(PHP新書/PHP研究所)


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