鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.7月取材旅行「神崎~佐原~津宮」 その6

2011-07-22 05:43:27 | Weblog
 「忠敬(ちゅうけい)橋」を過ぎると、「佐原の町並」と記された案内板がありました。

 それによると、『利根川図志』には、「佐原は、下利根附第一繁盛の地なり、村の中程に川有りて、新宿 本宿の間に橋を架す、米穀諸荷物の揚さげ、旅人の船、川口より此所まで、先をあらそい、両岸の狭きをうらみ、誠に、水陸往来の群集、昼夜止む時なし」と記されているという。

 この「村の中程に川有りて」の「川」が、小野川のことであり、「米穀諸荷物」の高瀬船による揚げおろし、またサッパ船による旅客の往来が、活発に行われていたことがわかります。

 小野川の川岸には、川面に向かって張り出している石段が各所にあり、それを「だし」と言いますが、その「だし」を利用して船の諸荷物の積みおろしが行われていました。

 今まで歩いてきた隅田川沿いにも、また小名木川・新川沿いにも、そのような「だし」が各所にあったものと思われますが、かつての風情をそのままに残しているような「だし」はそれらの河川沿いにはすでになく、この佐原の市街を流れる小野川沿いを歩いていると、かつての「だし」の風情がそのままに残っていることに新鮮な驚きを覚えました。

 水運により、生活や生業(なりわい)が川と密着していた都市の姿を、今に伝えている貴重な町並みであると思いました。

 この「忠敬橋」から、小野川が丘陵にぶつかって左に大きくカーブするあたりまでの、川沿い両側が特に整備されているところで、歩道も美しい石畳みとなっています。

 「忠敬橋」から小野川上流方向に見えた木造の橋が「樋橋」で、その案内板によると、樋橋は江戸時代の初期、佐原村の灌漑用水を東岸から西岸に送るために小野川に架けられたものであるとのこと。この橋は、人を渡すためにつくられたものではなく、後に大樋を箱型につくり、丸太の手摺を付け、板を敷いて、人が渡れるようになったのだという。いったんコンクリート製になったものの、かつてのように架け替えられたものであるようです。

 この「樋橋」の手前左手にあるのが「伊能忠敬旧宅」で、「樋橋」を西岸に渡って少し入ったところにあるのが「伊能忠敬記念館」。

 今回は時間の関係上、2つとも立ち寄らず、また別の機会とすることにしました。

 この「伊能忠敬記念館」の前から「樋橋」の方向を眺めてみると、「伊能忠敬旧宅」の屋根には屋根瓦がなく、水色のシート状のもので屋根が覆われています。今回の大地震のために屋根瓦全体が損傷を受けたものと思われます。

 そのまま小野川沿いに進み、右岸の「町並み観光乗舟待合所」に入って休憩(13:41)。ここの無人休憩所で、佐原に関する各種マップやパンフレットをいただきました。

 ここから、香取市立佐原小学校前→山車会館前→JR成田線「浜宿街道踏切」を経由して「北賑橋」へと戻り、利根川の堤防の上に出た(このあたりは「舟戸(ふなど)」という)のが14:05。

 そこからすこし進んで左手に現れたのは、なんと「道の駅 水の郷さわら」という広大な施設でした。この「道の駅 水の郷さわら」は国道356号線沿いの利根川堤防と河原を利用して造られた新しい施設であり、ある意味では、水運から陸運(鉄道→車)へと大きく変化した近代交通史を象徴的に示しているものでした。

 申し訳のように「川の駅」というのもありますが、それは「防災教育展示室・総合案内・レンタサイクル・観光船・カヌー乗り場」となっており、あくまでも賑わいは、国道356号線を利用する人々を対象とした「道の駅 水の郷さわら」の方にあります。

 この「川の駅」一帯は、「佐原地区河川防災ステーション」となっており、それは「台地のようなこわれにくいスーパー堤防上に整備」されています。いざという時には、「洪水や地震などの災害時に、迅速に対応できる防災施設」として建設されたものですが、このような防災ステーションを、利根川筋において、工事中のものを含めてすでにいくつか目にしています。

 「道の駅 水郷さわら」に立ち寄って休憩をした後、ふたたび利根川堤防上を津宮(つのみや)目指して歩き始めました(14:22)。

 右手には、緑の田んぼ越しに佐原の市街地(小野川沿いの)が見えます。

 おそらく、水郷大橋から小野川河口部までの、現在は「佐原中央病院」や「香取市役所」などが建っている辺りも、かつては水田の広がりであったはずであり、その水田を埋め立てて造られた新市街地は、大地震による液状化現象のために被害が大きかったものと思われました。

 小野川沿いの「重要伝統的建造物群保存地区」については、また別の機会にじっくりと時間をかけて歩いてみよう、と思いつつ、崋山一行が木下茶船で向かった「津宮河岸」へと足を速めました。


 続く


○参考文献
・『東京 都市の明治』初田亨(ちくま学芸文庫/筑摩書房)


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