鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

ガスミュージアムの「小林清親展」について その4

2013-01-05 06:04:30 | Weblog
 もう一枚、私が興味をひかれたのは『五本松雨月』(明治13)という作品。

 この浮世絵には、左手前に大きな松樹一本が描かれ、右下には川を煙を出して航行する蒸気船が描かれています。

 この「五本松」として知られた場所に私は行ったことがあります。

 中川から小名木川を隅田川に向かって歩いた時ですが、その時に、かつて「五本松」があったというところを通ったことがあるのです。

 この小名木川の「五本松」のあたりについては、広重が『名所江戸百景』で「小奈木川五本まつ」として描いており、さらに広重はその小名木川の先、ちょうど中川と合流するところを「中川口」として描いています。

 この「中川口」という作品には、その小名木川の先、江戸川へとつながっていく水路が描かれており、それが「新川」という川であり、江東区中川船番所資料館で係員の方から、この「新川」は今でも残っていますよ、と聞いたことから、私は「中川」や「新中川」を越えて、その向こうの「新川」に沿って江戸川(旧江戸川)まで歩くことがあったのです。

 さらに中川船番所資料館では渡辺崋山が描いた『四州真景』のスケッチのうち、中川船番所を描いたもの(複製)を見掛けたことにより、崋山が行徳(ぎょうとく)船で行徳河岸まで行き、そこから陸路、木下(きおろし)街道などを利用して利根川筋の木下河岸に出て、そこから舟に乗って潮来や銚子へと赴いたことを知ることになったのです。

 つまり小名木川は、新川や江戸川を経て利根川水系(北関東・太平洋・東北地方)とつながる重要水路であることを知ったのです。

 清親の「五本松雨月」に描かれている川は、その重要水路であった小名木川であり、その水面を、明かりを点し、煙突から煙を吐いて航行する蒸気船は、東京と利根川水系の各河岸を結ぶ船ということになります。

 ではその描かれた小名木川を航行する蒸気船とは何か、と言えば、その参考になるのが『新編 川蒸気通運丸物語 利根の外輪快速船』山本鉱太郎(崙書房出版)です。

 そのP71の「郵便御用利根川筋蒸気通運丸乗客運賃表」(明治12年4月現在)によれば、通運丸で東京と結ばれていたところは、行徳・市川・松戸・加村・野田・宝珠花・関宿・境・栗橋中田・古河(渡良瀬川)・生井(思川)などであったことがわかります。

 この「内国通運会社」の「通運丸」が営業を開始したのは、明治10年(1877年)の5月1日のこと。

 東京においては、深川扇橋や日本橋蠣殻町が出発点でした。

 清親が描く「通運丸」は、煙を左方向へ流しており、手前が「五本松」のうち唯一残っていた一本であるから、この2隻の「通運丸」はおそらく小名木川を隅田川方向へと向かっていることになる。つまり終着点である深川扇橋か日本橋蠣殻町に向かっていることになります。

 時刻は夕方であると思われるから、昼間、利根川や江戸川を航行してきた「通運丸」が、新川を経て小名木川へと入り、途中で夕方となって暗くなってきたものだから、室内の灯りであるカンテラ(灯油用ランプ)が点され、その明かりが水面に美しく映っているという景になる。

 左手の松樹の下を、雨傘を差し、提灯を持って歩く人々にとって、新しい照明である「カンテラ」で窓全体を明るくし、そしてポンポンとかまびすしい蒸気音を立てて、煙突から煙を吐きながら航行する「蒸気船」(通運丸)は、「文明開化」を実感させるものであったでしょう。

 ここには、かつて広重が描いたような、乗客を乗せた「行徳船」(崋山もその「行徳船」で『四州真景』の旅に出発した)が往き来する「江戸」の小名木川ではなくて、大勢の乗客を乗せたポンポン蒸気(「通運丸」)がカンテラを点して航行する「明治」の小名木川の光景に、深い感慨を抱いている清親がいます。



 続く



○参考文献
・『謎解き浮世絵叢書 小林清親 東京名所図』監修 町田市立国際版画美術館(二玄社)
・『謎解き 広重「江戸百」』原信田実(集英社)
・『新編 川蒸気通運丸物語 利根の外輪快速船』山本鉱太郎(崙書房出版)


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