鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

「企画展 渡辺崋山・椿椿山が描く 花・鳥・動物の美」について その5

2013-10-29 05:51:34 | Weblog

 「作家・作品解説」によれば、崋山や椿山の師であった金子金陵は、沈南蘋(しんなんぴん)風の花鳥画を得意としていたが、その沈南蘋流から南田(うんなんでん)風へ転じたと言われている、という。

 南田(1633~1690)というのは、江蘇省に生まれ、文人として「詩書画三絶」と称されたとのこと。

 「没骨法」を取り入れて、写生を基調とした花卉(かき)図を描きました。

 この南田の花卉図は、崋山や椿山など没骨法を駆使した花卉図表現に影響を与えた、とも記されており、先に触れたことからもわかる通り、彼らの師であった金子金陵が沈南蘋流から南田流に転じたということであれば、崋山や椿山も、金子金陵から南田のことを知ったとも考えられます。

 金陵は文晁から画を学んだという指摘もあり、もしかしたら金陵は文晁から、沈南蘋や南田の花卉図を知ったとも考えられますが、このあたりのことは今のところよくわかりません。

 展示図録『生誕250年 谷文晁』を見てみると、文晁は花鳥図にもすぐれた才能を見せています。

 「竹鶴・芙蓉雉子図」や「枯木山鳩図」、「武蔵野水月図」などがそれ。

 いずれも沈南蘋流の写生画法にならったものですが、清新で品位のある作品です。

 文晁の「縮図帖」には、雪舟画の写しや沈南蘋の花鳥図の写しなどが含まれており、「文晁の初期の画業に影響を与えた二人の画家の作品を、後年になっても勉強し続けていたことがわかる」と「作品解説」に記されているように、文晁は沈南蘋に大きな影響を受けていたことがわかります。

 崋山は、金陵門から谷文晁門に入り、文晁の画塾である写山楼において、「当時でもなかなか眼にすることのできない中国古画や狩野派、南蘋派の絵の模写」を熱心に模写しました。

 鈴木利昌氏によると、崋山や椿山の残した多数の縮図冊を見ていくと、崋椿系の画家が学習対象とした中国画家を挙げることができるといい、沈南蘋はもちろんのこと、南田・沈周(石田と号す)・王若水・陸包山等の名前が出て来ます。

 南田の「没骨法」とは、輪郭線(骨法)をほとんど描かずに、水墨または彩色で対象を描き表す技法。

 崋山も椿山も、その「没骨法」を、花鳥図に多用しています。

 

 続く

 

〇参考文献

・展示図録『生誕250年 谷文晁』(サントリー美術館)

・展示図録『渡辺崋山・椿椿山が描く 花・鳥・動物の美』(田原市博物館)



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