鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

荒川水運「新川河岸」 その3

2012-05-16 05:27:59 | Weblog
その「どかさんち」の案内板には次のように記されていました。

 「新川の繁栄と滅亡を後の人に伝えたいと仕事の合間に綴った小冊子『新川河岸と新川集落』。これがきっかけで新川見直しがスタートしました。生家は養蚕業で、明治41年生まれで昭和15年まで32年間ここに暮らしました。本業は社会科の先生で、子どもの頃から伝わるお祭りや風習、狐に騙された話などを今に伝えました。『どかさんち』というのは、雨が降るとぬかるむ家、という意味とか…」

 説明文の右上に写真があり、それには、「旧屋敷のちかくの大嶋家の墓地で説明する大嶋利雄さん」とあり、また円内の顔写真も大嶋利雄さんのもの。

 左上の地図を見てみると、大嶋家の周辺には、船乗りや船頭たちの家が密集し、また回漕問屋や質屋、農家などがあったことがわかります。

 前の道を西の方へ進むと「三嶋神社」があったこともわかります。

 大嶋利雄さんは、養蚕業を主とする農家に生まれて学校の教員となり、社会科の先生をしていたことがこの案内板からわかりました。社会科の教員や農業を行う傍ら、自分が育った新川村の歴史や風俗などについて調べ、その調べた結果を、小冊子『新川河岸と新川集落』にまとめたのです。

 私はまだその小冊子に目を通していませんが、その小冊子が、かつて新川河岸と養蚕業によって繁栄した新川村の歴史を見直すきっかけとなったというのです。

 大嶋家は昭和15年(1940年)までここに住んでいたということだから、大嶋利雄さんは生まれてから32歳になるまで、この新川村に住んでいたことになります。

 おそらく、大嶋さんが自分が育った新川村の歴史や風習などに関心を深めていったのは、この新川村から立ち退いて以後のこと、戦後になってからのことではないかと推測されますが、この新川村の歴史や風習を詳しく調べて小冊子にまとめた大嶋利雄さんという方がおられたことによって、河岸として繁栄した新川村の歴史の記憶がかろうじて留められることになった、と言えるのかも知れません。

 新川河岸は、江戸時代においては「江川(えかわ)河岸」と呼ばれ、この地域周辺と巨大消費都市江戸とを結ぶ、荒川に沿った物資流通の一大拠点でした。忍藩の御用船(御手船〔おてふね〕)は、主にこの「江川河岸」を利用したということからも、そのことはうかがえます。秩父地方の材木や米、野菜、織物なども、この江川河岸に集められ、船に積み込まれたのです。

 中島迪武さんの『やさしい熊谷の歴史』には、江川村や久下村は、船主や河岸問屋、宿屋が集まって大変繁盛した、との記述がありましたが、この「どかさんち」の案内板に載っている大嶋家周辺の地図からも、船乗りや船頭の家がこの一帯に多かったことを知ることができました。

 この、荒川沿岸で最も栄えたという「江川河岸」から江戸までは、荒川を利用しておよそ36里(144km)。早船であれば、江戸まで2日。普通の船でも短い時で4、5日。普通は15~20日。それぞれの河岸で周辺のさまざまな物資を積み込んで江戸へと運び、戻りには江戸で仕入れたさまざまな日用品類を各河岸で下したのでしょう。

 忍藩の御用船は主にこの「江川河岸」を利用したということは、忍藩領内で生産された年貢米は、この「江川河岸」から御用船に積み込まれて、江戸へと運ばれたものと思われます。


 続く


○参考文献
・『熊谷郷土カルタ』(熊谷市立図書館)
・『やさしい熊谷の歴史』中島迪武


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