鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

『江戸の町』(草思社)について その2

2010-05-30 07:15:47 | Weblog
 耐火建築については、『江戸の町(下)』のP38~39がわかりやすい。軽くて安い「桟瓦」の普及を知って、瓦葺き建築を許可したのは八代将軍吉宗。幕府が耐火建築の普及を積極的に推進したことにより、江戸には、火に強いか弱いかの程度にしたがって、三つのタイプの町屋が造られるようになりました。それは「土蔵造り」・「塗屋造り」・「焼屋造り」の三つ。

 このページのイラストには、それぞれが描かれています。

 「土蔵造り」は、屋根は桟瓦葺き。軒裏・壁・建具など外側すべてをぶ厚い土壁塗り漆喰仕上げにしたもの。

 「塗屋造り」は、屋根は桟瓦葺き。通りに面した正面2階のみを土壁塗り漆喰仕上げにして、1階正面および側面や背面は下見板張りにしたもの。

 「焼屋造り」というのは、屋根は板葺きで外壁はすべて下見板張りの粗末なもの。これは貧しい庶民の住む裏長屋(棟割〔むなわ〕り長屋)において見られる建築でした。

 通りに面した商家の前には、消火用の天水桶・用水桶が置かれ、また町火消しの制度も整えられていき、高さ20m余の火の見櫓(ひのみやぐら)も設けられていくようになりました。

 土蔵造りで黒壁の商家がずらりと建ち並ぶ独特の江戸の商人町の景観は、P40~41に描かれますが、中央やや右上に火の見櫓が突き出ています。町人町にある高層建築は、この火の見櫓ぐらいであったでしょう。

 『江戸の町(下)』は、「江戸城明け渡し」で終わります。

 その後、東京の景観がどのように変化していったかは、古写真や絵画資料などによって知ることができるのですが、明治維新を迎えてからの大きな変化は、「文明開化」にともなって西洋風の建築(それも高層の)が建てられるようになったことと、江戸城(皇居)の諸門や建物がどんどん取り壊されていったことであるでしょう。

 先に触れたように、江戸の町屋では2階建てよりも高い家は、防火の関係上建てることができませんでした。高い建物は、火の見櫓ぐらいでした。

 ただ寺社地では、かなり大きな社殿が造られ、また五重塔を備えるお寺もありました。

 「幕末から明治初年の東京の都市景観の変化を象徴する建物」(『日本ホテル館物語』長谷川堯〔プレジデント社〕)としては、「築地ホテル館」を挙げることができる。この建築工事が始められたのは慶応3年(1867年)7月。建築された場所は、築地船板町の御軍艦操練所の跡地。完成したのは、幕府崩壊後の慶応4年(1868年)8月。江戸の築地居留地に附属する主要な施設、すなわち外国人が宿泊するためのホテルとして建設されました。

 このホテルは、写真で見ると中央部分に塔屋があり、その塔屋は5階に相当するように見える。前掲書のP60には、本館の構造がうかがえる資料が載っていますが、それによると、この本館には45坪の3階と9.7坪の4階、それに3坪の塔屋があることになっています。その塔の先端までの高さは94.0尺とあるから、このホテルの高さは30m近くもあったことになります。

 この築地ホテル館は、明治5年(1872年)2月に、東京下町一帯を灰燼に帰した大火によって焼失してしまいますが、江戸・東京に出現した初めての西洋風高層建築であったと言えるでしょう。

 このホテルの4階(9.7坪)の丸いガラス窓からは、どういう景観を見晴るかすことができたか。

 当時、江戸の下町(商人町)には、2階建てよりも高い建物は火の見櫓ぐらいしかなく、見晴らしはずっときいたのです。

 江戸の町の見晴らしがずっときいた、という点において挙げなければならない古写真は、フェリーチェ・ベアトが愛宕山の上から撮影したパノラマ写真。愛宕山の標高は26m。築地ホテル館の4階の窓ガラス部分が20mちょっとという高さだと推定されるから、それほど高さ的に変わりはありません。撮影されたのは元治元年(1864年)以前。

 そこから眺めた江戸の風景は、『写真で見る江戸東京』のP48~54にかけて掲載されています。また『F.ベアト写真集』のP24~25にも掲載されています。

 「よくぞ、撮影しておいてくれた」と、感謝したくなるようなパノラマ写真です。眼下には、越後長岡藩牧野家中屋敷や大和小泉藩片桐家上屋敷、伊予松山藩松平(久松)家上屋敷、海岸の方に浜御殿、その向こうに江戸湾が見えています。

 築地ホテル館は、この写真が撮影された数年後に、浜御殿のある森からやや左手、西本願寺の大きな屋根が見えるあたりの向こうに建てられたことになります。

 手前に広大な大名屋敷が密集し、その武家居住区域と江戸湾との間に町人居住区域が広がっています。そしてところどころにかなり森が密集しているのが印象的です。高層建築は、というと、大名屋敷や町屋にある火の見櫓、そして西本願寺ぐらいで、あとはすっきりと見渡すことができる。つまり視界を遮るものは何もないのです。

 これが明暦の大火以後の、江戸の町の基本的景観であったでしょう。

 『江戸の町(下)』は、そのような明暦の大火後の江戸の町の様子が、俯瞰的に、また微に入り細に入り、緻密なイラストで描かれています。

 『江戸の町』には当然のこととして描かれなかった、東京になってからの町の景観の変化は、『写真で見る江戸東京』の「第三部 文明開化の東京」の写真群で知ることができます。

 明治5年(1872年)に海運橋近くに建てられた5階建ての和洋折衷の「第一国立銀行」、明治7年(1874年)に駿河町に建てられた「三井組」の、周囲の町屋から突き出した和洋折衷の建物、明治5年(1872年)の下町の大火後に建てられた銀座通りの「赤煉瓦街」、明治4年(1871年)に完成した「新橋駅」の洋風建築、そして明治23年(1890年)に建てられた「浅草十二階(凌雲閣)、明治24年(1891年)に駿河台に完成した「ニコライ堂」などが、江戸東京の景観を大きく変えていきました。

 さらに注目すべきなのは、江戸城の外堀や内堀の周辺の景観が大きく変化していったこと。

 千代田区の「四番町歴史民俗資料館」の古写真で見たように、明治4年(1871年)に市ヶ谷御門、明治5年(1872年)に小石川御門・牛込御門、明治6年(1873年)に神田橋御門・筋違(すじかい)御門・浅草御門・鍛冶橋御門・日比谷御門・山下御門・呉服橋御門・数奇屋橋御門、明治10年(1877年)に常盤橋御門など、かつて江戸城の外堀や内堀に面してあった諸門や櫓が次々と撤去され、皇居周辺の景観は大きく変化していったのです。

 土佐藩の留学生として長崎でフランス語を学んでいた中江兆民は、幕末の江戸にやってきて、幕末維新期の多くを江戸・東京で過ごし、明治4年に岩倉使節団に附属する海外派遣留学生の一員としてフランスに赴き、明治7年の夏に日本に帰国しますが、その間に、東京の景観は皇居周辺を中心に大きく変貌していたことになります。


○参考文献
・『江戸の町(上)(下)』内藤昌・イラストレーション穂積和夫(草思社)
・『日本ホテル館物語』長谷川堯(プレジデント社)
・『写真で見る江戸東京』芳賀徹・岡部昌幸(新潮社)
・『F.ベアト写真集2』横浜開港資料館編(明石書店)


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