鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その7

2010-12-11 08:16:03 | Weblog
 「浦安名物焼蛤」などの店看板などを見て、境川に架かる新川橋を渡ったのが10:45。新川橋の欄干には、草にじょうろで水をやる男の子の姿がレリーフとして施されています。

 そこから見る境川は、ほぼ垂直のコンクリート護岸が施された何の変哲もない殺風景な川でしたが、橋のたもとに立てられている「境川」と書かれた案内板の写真を見て、その光景に一驚しました。

 境川は両岸が、繋留された川船でほとんど埋まり、流れは中央にわずかしか見えない。左手の河岸には大きな松がそびえ立っており、そこから川沿いに続く家並みの中には萱葺き屋根の家も3軒ほど見られ、また左端の家も茅葺き屋根であるようです。 
 
 案内板には、境川は江戸川の支流であり、かつては長さ1.7kmほどの小さな川であったという。しかし、昭和40年(1965年)からの海面埋立事業により、川の長さは3倍の約4.8kmになった、とあります。江戸時代においては、人々は境川の両岸に密集して民家を建て、その北側が猫実(ねこざね)村、南側が堀江村として、それぞれ集落を発展させていきました。川の水は、昭和20年代ごろまでは、川底が透けて見えるほど美しく、人々は、長い間この川の水を飲み水や炊事洗濯などの生活用水として利用してきたという。また、漁業を生業としていた人々にとっては、境川は『海への玄関口』であり、かつては2000艘近くもの船が、びっしりと係留され、魚介類を荷揚げする光景があちこちに見られた、と記されています。

 この案内板に掲げられている写真は、「大正期の新橋付近」の川岸にびっしりと川船が繋留する境川の情景を写したもの。

 このような情景が、昭和40年代ごろまでは見られたということになります。

 しかし、昭和46年(1971年)、漁業権が全面放棄されると、それらの川船も役目を終えて姿を消していった、ということもその案内板には記されていました。

 川縁には「大松(だいまつ)」と記された案内板もあり、それによると、新橋と清瀧(せいりゅう)神社の間にはかつて「旧浦安町役場があり、それに隣接(境川べり)したこの場所には、樹齢200年以上におよぶ松の大木があって、それは漁師町浦安のシンボル的存在であったとのこと。しかし昭和15年(1940年)に浦安橋が開通して町内の交通量が増えると次第に木の根が傷み、昭和17年(1942年)には枯れてしまったという。

 その案内板に掲載されている「大正9年(1920)の大松」の古写真を見ると、川縁の道の端っこにその大松は生え出ています。この大松は、おそらく先の「境川」の古写真に写っている大松と同じものであるでしょう。

 その「大松」の古写真の下にあるマップによれば、近くには、「清瀧神社」や「大蓮寺」、「宝城院」などの神社仏閣があり、また境川とフラワー通りの間に、「旧宇田川家住宅」や「旧大塚家住宅」というのがある。「宮前通り」の「宮前」とは、清瀧神社の前ということであるようです。「旧町役場跡」がこの「大松跡」の隣であるから、この新橋の西側一帯がどうもかつての浦安の中心であったようだ。

 その「大松」の案内板の左側には、「浦安役場跡」の案内板もあって、そこには江戸時代、幕府に納める年貢米を貯蔵する郷蔵があったと記されています。明治44年(1911年)に竣工された新庁舎は、瓦葺き平屋建て和洋折衷造りで、当時は浦安には過ぎたるものと言われたという。「漁業の町」として栄えてきた浦安も、昭和44年(1969年)の地下鉄東西線の開通により都市化の波が押し寄せ人口が急増し、新庁舎が建設されることによって、この役場はその姿を消したということも記されています。

 その浦安役場庁舎の銅板写真が、その隣の碑に掲載されていました。

 清瀧神社は、その「宮前通り」沿いにあり、そのかつての浦安の雰囲気を残す境内に入ってみたところ、社殿左側に石積みの小山のようなものがあり、近寄ってみたところ、なんとそれは立派な「富士塚」でした。


 続く


○参考文献
・『渡辺崋山 優しい旅人』芳賀徹(朝日選書/朝日新聞社)
・『河岸に生きる人々 利根川水運の社会史』川名登(平凡社)


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