鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士市立博物館 展示会「講 ~人と人をつなぐもの~」 その3

2012-07-15 05:18:59 | Weblog
 二つ目に紹介されていた講は、今泉上和田の「大山石尊講」でした。

 2階へと上がる階段の踊り場の角に、「昭和五十三年大天狗 大山石尊大権現 吉日小天狗」と記されたのぼり旗が立てられ、その旗の下部に「上和田講中」として講員の人名が17名ほど記されています。

 「大山石尊講」の説明パネルによると、この今泉上和田の「大山石尊講」は現在も活動が行われているとのこと。

 「大山」は、石尊大権現を神体とする霊山で、古くから関東近辺の村々では、雨乞いや五国豊穣、大漁祈願、病気平癒といった信仰を集めてきました。

 また近世の江戸町人の社会では、特定の職人集団による参詣が盛んとなり、現世の利益をもたらす神としても信仰の対象となっていました、とも記されていました。

 現在、今泉の大山石尊講の活動としては、6名の男性講員により年3回の地元での行事と、3年に一度の大山詣りが行われているという。

 また江戸時代の大山講の隆盛をしめすものとして、歌川国芳の「大山石尊大瀧之図」や「大山石尊良弁瀧之図」、歌川広重(初代)の「山海見立相撲 相模大山」、葛飾北斎の「諸国瀧廻り 相州 大山ろうべんの瀧」などの浮世絵が掲げられていました。

 参詣者は、良弁の滝と大滝で水垢離(みずごり)をした後、神前に自分の持参した大太刀を納め、護符として他の大太刀を持ち帰った、とありますが、その大太刀を納める大山詣りは男だけに許される参詣で、江戸の鳶(とび)や職人の間で多く行われたという。

 北斎が描く「大山 ろうべんの瀧」にも、水垢離をする大山の講員は、これから奉納する白木の大太刀を持っています。

 北斎は、江戸の隅田川に架かる両国橋を渡る群集の中にも、これから奉納する白木の大太刀を持つ大山講の講員を描いており、また両国橋のたもとで水垢離をする大山講の人々を描いています。

 一年のある時期においては、そのような光景は、江戸の人々にとってはありふれた光景であったものと思われます。

 北斎描く「大山ろうべんの瀧」の滝の右手には御師の家(宿坊)が描かれ、その軒先に立てられた竹竿には「藤の坊」と墨書された提灯が掛かっています。

 陳列棚には大山石尊講の掛軸が掛けられ、また「講社代参牒」などが展示されていました。「講社代参牒」は、明治36年、37年、38年の大山詣りの際の記録ですが、この今泉の大山石尊講では、当時、大山の先導師(御師)である今坂銀次郎の家に宿泊していたことがわかります。

 富士山のほんの麓(南麓)においても、相州伊勢原にある大山への山岳信仰である「大山石尊講」が長く存続し、また現在もわずかの人数ながら講としての活動が行われていることに、正直言って驚きました。



 続く


○参考文献
・各展示パネルの説明文


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