鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.4月取材旅行「新田木崎~尾島~前小屋」 その13

2013-05-17 05:54:28 | Weblog
 「このあたりに天神様の社がありますか」と聞いたところ、その方は、「そこにあるのが天神様です」とのこと。

 「それが天神様ですか」

 と、私は、あっさりと天神様が見つかったことに、ちょっと拍子抜けしたような気持ちになりました。

 「ほかにはここに神社はありますか」

 とお聞きしたところ、

 「ここだけです」

 とのこと。

 ということは、ここが前小屋の天神社(唯一の神社)ということになります。

 前小屋の集落は、その天神社を西の境にして、その天神社の東側に、土手(利根川の)に沿った通り沿いに連なっていました。

 1列の並びではなく、2列ほどの並び。つまりもう一つ内側に通りがあったりします。

 人家の並びとともに、電柱もほぼ等間隔に並んで立っています。

 その土手に沿った通りを東方向に歩いていくと、右手に「南前小屋集荷所」があり、また「長谷川四郎先生」と記された銅像(胸像)がありました。

 
 この「胸像」の「長谷川四郎」なる人物が、先ほどの案内標示にあった、「深谷郷土の偉人」の一人であるようです。

 その胸像の傍らにあるやや古くなった石碑には、「南前小屋水害対策事業完成記念碑」と刻まれ、また「衆議院議員長谷川四郎題賛」とも刻まれていて、さらにその水害対策事業のことが記されていました。

 それによると昭和22年(1947年)9月に襲来したカスリーン台風により利根川は増水し、前小屋(南前小屋)の集落は未曾有の甚大なる被害を受けたとのこと。

 昭和30年(1955年)に至って村の復興のために小山川水害対策委員会が結成され、衆議院議員であった長谷川四郎の指導によって利根川の上流の改修や輪中堤の工事が推進され、全村35戸の住宅移転がが完了したのが昭和53年(1978年)7月のことであったという。

 この小山川と利根川の間に造成された「輪中堤」の上に、カスリーン台風による利根川や小山川の増水氾濫で壊滅的な打撃を受けた35戸が、無事全戸移転を果たしたのは昭和53年、つまりカスリーン台風被災より31年後であったというのです。

 ということは、ここにある「前小屋」の集落は、かつてあった村の形態とは全く異なっているということになり、また小山川橋の北詰にある天神社も、かつての天神社とは異なるものであり、かつてあったところから移転したものだということになります。

 大正時代初年から利根川の大改修工事が、「帝都」東京を水害から守るために行われていて、それによって幕末の頃の利根川流域の様子は大きく変貌していますが、戦後の改修工事によっても更に変貌を加えていきました。

 したがって、かつての前小屋村の景観を想像することはかなり困難を伴うことになります。

 崋山の目的地であった前小屋村の景観は、天保2年(1831年)前後においてどのようなものであったのか。

 崋山の記録を読んで見ると、私は、熊谷近郊の荒川の広い河原に見られた「屋敷森」を思い出します。

 竹藪のある「屋敷森」。

 かつて「屋敷森」の中の人家は、やや高く積み上げられた石垣の上につくられていました。

 「渡し場」が近くにあったから、「渡し場」へと通ずる畑や田んぼの中の道もあったでしょう。

 竹が屋敷地のまわりに植えられている(そして竹藪となっている)のは、洪水などの威力から屋敷を守るためのものであるでしょう。単なる風対策ではありません。

 その家の墓地は、その近くに先祖代々からのものがある。

 「屋敷森」のまわりには、その家で耕作する田んぼや畑がありますが、利根川の増水によっては、家もまた田畑も濁流にのみこまれてしまうことも十分にありうる。

 それでも人々が先祖代々住み続けたのは、近くに大きな川があり、渡し場があり、また河岸のようなものがあったから。

 人々の、また物資の活発な往き来があったからです。

 利根川の河原はもっともっとかつては広大であり、その両側の土手に挟まれた広い河原には、あちこちに田畑に囲まれた「屋敷森」があり、その森(竹藪もある)の中にそれぞれの人家があったのではないか。

 「35戸」の「前小屋」の集落とは、かつてはそのような景観の中にあったのではないか、と私には想像されました。



 続く



○参考文献
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)


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