鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.4月取材旅行「新田木崎~尾島~前小屋」 その14

2013-05-18 06:20:26 | Weblog
 その「南前小屋水害対策事業完成記念碑」の上部には、「豊年和人」という文字が浮彫りにされていました。

 さきほど「南前小屋集荷所」があって、それに「南前小屋」とあって、また記念碑にも「南前小屋」とあるということは、このあたりは通称「南前小屋」であるということを示しています。

 ということは通称「北前小屋」もあるということであり、その「北前小屋」というのは、おそらく利根川の北側にある現在の「太田市前小屋町」のことを指しているのでしょう。

 その石碑や「長谷川四郎先生」の銅像の前を通って、通りをさらに東へ進むと、その道は右手へとカーブする土手にぶつかり、行き止まりになっているかと思ったら、右手へと入る道があり、それはそこでぐるっと回って、今度は西方向へと向かっていました。

 その土手にぶつかったあたりで利根川の土手へと上がってみると、利根川の流れが見渡せ、その上流には「新上武大橋」が見えました。

 土手には「海から169.5kmです」と記された標示が立っており、この地点が利根川が太平洋に注ぎ込むところ(銚子)から、「169.5km」であることを示していました。

 その土手から下流方向右手、前小屋の集落が尽きたところからやや東側、少し下に広がる畑地の中に、黒御影石の墓が目立つ集団墓地が見えたので、それが前小屋地区(南前小屋)の人々の墓地であるだろうと判断して、土手を下り、その墓地へと足を向けました。

 墓地の手前の駐車場に車が一台停まっていて、墓参りかお墓のそうじに来たらしい人がいたので、「この墓地は前小屋の人たちのお墓ですか」と尋ねたところ、「そうだ」とのこと。

 比較的新しく造成された墓地のように思われます。

 それは「先祖代々」のお墓が集まる集団墓地であり、姓は少なく、いくつかの姓に限られています。

 墓碑銘を見てみると、明治・大正の没年が見られます。

 しかし脇の方に密集して置かれている墓石は相当に古いものであるように思われました。

 各家の近くにかつてはあったそれぞれの家の先祖代々からの墓が、新しく造成されたこの墓地に移転され、また新しく先祖代々の墓がここに造られたのです。

 私がこの墓地の中で探したお墓は「青木家」のものでした。

 というのも、崋山が赴いた「前小屋天神」で開かれた書画会の会主(主催者)は、前小屋村の「青木長次郎」なる者であり、崋山はその「青木長次郎」家を訪れ、そこで「書画会」が「前小屋天神」で開かれる前に休憩をしているからです。

 崋山がその「青木長次郎」家に到着する前に、すでに岡田東塢(足利の五十部村〔よべむら〕の丹南藩代官)もこの「青木家」に到着していました。

 崋山と岡田東塢は、足利の本坂町の「蔦屋」という旅宿で初めて出会って意気投合し、五十部村の代官屋敷(岡田家)で別れてからの数日ぶりの再会であり、この二人が再会を喜び合ったのがこの前小屋村の「青木家」でした。

 「青木家」の先祖代々の墓地が必ずここにあるはずだ、と思いつつ、墓地内を歩いてみました。



 続く



○参考文献
。『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿