鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

「村山古道」とオールコック その7

2008-10-28 06:01:52 | Weblog
 天照教の駐車場の隅に腰を下ろして、持参のおにぎりを頬張りながら、畠堀さんから天照教のことや安政の大獄のこと、清水次郎長のことなどの話を伺っていると、軽トラが一台、私たちがいる駐車場に入ってきました。

 この軽トラでやって来た人は、畠堀さんが懇意にしている富士宮市の和風料理店「花月」のご主人。私たちがここに到着する前に、ここに到着していて、熱い味噌汁などを用意しておいてくれる予定であったらしい。しかし私たちの到着が早く(5:04に登山口を出発しているので)、わずかに遅れて到着したということであるようだ。

 「花月」のご主人は、見事な包丁さばきで、豚肉・じゃがいも・冬瓜(とうがん)の入ったおいしい味噌汁を作ってくれました。おいしくて二杯おかわりをしました。ここでこういう五臓六腑に染み渡るようなお味噌汁を飲めるとは思ってもいませんでした。ご主人は家の近くでとれたという小ぶりのりんご(野生か?)や「ゆべし」という和菓子まで持ってきてくれたばかりか、抹茶を立ててくれました。「ゆべし」を食べた後に、立派な大きな茶碗で抹茶をいただきました。「けっこうなお手前」でした。

 おなかがふくらみ、体が温まったところで、8:35に天照教の駐車場を出発。舗装道路を横切って、「村山道」の標示のところを入っていきます。

 ここからの道は、前回、中宮(ちゅうぐう)八幡堂からの下山の時に通ったところ。あの道を逆に(つまり登って)進んでいくことになります。

 ここからの道は比較的歩き易いのですが、ところどころ風損木があります。それを潜ったりして抜けていく。

 まもなく舗装された林道に出ますが(8:50)、これが「吉原林道」。

 ここが五つ目の迷いやすいところ。

 林道に出て、右折して5mほど進んだところで左に入る道がありますが、これが「村山古道」。前回下ってきた時に、ここで道を見失い、進退窮まって畠堀さんの本を取り出して確認した覚えがあります。

 この道に入ってすぐに直径30cmほどの鉄管にぶつかりますが、その管の下を這いつくばって潜り抜けます。この鉄管は付近にある「富士山麓 山の村生活棟」の汚水管であるらしい。

 しばらく進むと、道がえぐれたところにぶつかりますが、この突き当たりの右側斜面をよじ登るとふたたび登山道が現れ、そこを進むこと数分で、木製のベンチが並んでいるところに出ました(9:00)。これが「富士山麓 山の村生活棟」の「緑陰広場」。このあたりはひめしゃらやくぬぎの原生林が広がっており、かつてはかなり大規模に炭焼きが行われていたところであるらしい。「山の村」はかなり立派な施設で、私たちがこに到着した時、ここで研修か何かを行っている大学生の一団とすれ違いました。彼らの一人は「村山古道」を知っていましたから(「へえっー、このあたりに村山古道が走っているんですか!」)、「村山古道」についての知識は徐々に人々の間に広まっているように思われました。

 ここで小憩し、Sさんや私は、作業準備棟のトイレを施設の方の了解を得てお借りしました。とてもきれいに掃除が行き届いたトイレでした。

 9:26に「緑陰広場」を出発。

 すぐに「日沢」(にっさわ)を突っ切ります。この日沢は、富士市と富士宮市の境界になっています。したがってこれを突っ切ると富士宮市側から富士市側に入ることになります。

 左手少し入ったところに馬頭観音がありましたが、これは昭和初年(3年か?)のもの。下にあった馬頭観音もそうですが、これは村山古道を荷物や人を乗せて往来していた馬のためのものではなく、木材の運搬のために使役された馬のためのもの。

 ここできのことりのために西臼塚の方から歩いて来た人たちに出会いました。

 「村山浅間神社まで3時間」、と聞いて、道を戻ることにしたようです。

 
 「木馬道」(きうまみち)という、きり出した丸太(これは製紙工場のパルプの原料として使われた)を載せた「木馬」(木製のそり)を、馬や人間が引っ張って麓(ふもと)に下ろすために造られた道を右左に見ながら、趣きのある登山道を、やや速度を上げて進んでいき、9:45に「大淵林道」に出ました。ここを左折すると、西臼塚駐車場に出ます。

 前回は、この西臼塚駐車場からここまで歩き、左折して中宮八幡堂に向かったのです。

 この林道の登山道に入る右手に、バイクが2台停まっていました。

 この大淵林道を突っ切り、ふたたび趣きのある「村山古道」を進むこと10分で、中宮八幡堂がかつてあったやや広がりのある草地に出ました。

 その草地の中央奥に、コンクリート製の小さな社が建っているのですが、その左手に年輩の人たちが20人ほど腰を休めていました。

 この方たちが、今日の「村山古道・中宮八幡堂祭り」に参加する村山の人たちでした。

 その中に2人の少年がいました。小学校2年生と6年生の兄弟。

 「誰といっしょに来たの?」

 と聞いたら、

 「おじいちゃんとおばあちゃん」

 と答えました。

 祖父母といっしょに、ここにやって来たのです。

 この2人とは、今日の目的地である旧四合目(宝永山荘があるところ)と新五合目駐車場まで同行(もっと上の「笹垢離」というところから)することになるとは、この時はまだ知りませんでした。


 続く


○参考文献
・『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)
・『F.ベアト写真集2』横浜開港資料館編(明石書店)
・『富士山 村山古道を歩く』畠堀操八(風濤社)


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