「行徳街道」に出て右折して街道を進むと、通り沿いに古い商家の建物があり、そこに案内柱らしきものがあるので近寄ってみると、それには「文化庁」「登録有形文化財」「加藤家住宅主屋・煉瓦塀」と記されていました。玄関入口の小屋根が半円形で一風変わっています。
また「笹屋うどん跡」という標柱のある建物もあり、その標柱の説明によれば、この「笹屋」は、江戸時代にうどん屋として繁盛した店で、船着場近くに位置していたため、立ち寄る旅人が多かったという。全体の造りは「加藤家主屋」とよく似ていますが、「加藤家」のような玄関入口の半円形小屋根はない。戸は閉ざされており、現在も営業しているような気配は見られない。
この通りには古い商家がところどころに点在しており、やはり文化庁「登録有形文化財」の「旧浅子神輿店店舗兼主屋」や、今もしっかり営業している「有限会社藤井畳店」などがありました。
「神明宮」(神明神社)も、この「行徳街道」に面してありました。「新河岸」の常夜灯からはほとんど真東にあり、牛堀の「三熊野神社」と「牛堀河岸」との関係から考察すると、かつてはこの神明神社より行徳街道を突っ切って「新河岸」際の常夜灯まで、一直線に参道が延びていたとも考えられます。
その「神明神社」の案内板には、創建年代は不詳、豊受大神(食物を司る神)、伊勢神宮の外宮の祭神、四丁目の鎮守として建立、などとありました。鳥居を潜った石畳の参道両側には銀杏(イチョウ)の古木があり、これも崋山は目にしているかも知れない。
「八幡神社」も、「行徳街道」に面してありました。案内板には、御祭神は「誉田別命(ほんだわけのみこと)」で、それは「第十五代応神天皇の名」のことで、創立年代は不詳。さらにその案内板には「富士塚について」という説明もありました。ここの境内にはどうも富士塚があるらしい。
ということで「八幡宮」の額の掛かった鳥居を潜り、社殿の裏側へと回ってみると、ブランコのあるミニ公園があり、その向こうに確かに「富士塚」がありました。岩石や溶岩状のもの(ボク石)で覆われていて、頂きには石の祠(富士浅間大神を祀ったもの)が設置されています。登山道の途中には「小御嶽神社」と刻まれたやや大きな石碑も立っています。
いつ頃に造られたものかは分かりませんでしたが、かつてこの地域にも「富士講」があったことを示すものでした。
この「八幡神社」も、「神明神社」で推測したのと同様にかつては「新河岸」まで参道が直結していたのではないか。
ふたたび「行徳街道」を北上。「塩小売店」とか「宮崎薬局」など古い商家を見て進むと、左手に「本行徳公民館」があり、その前に「「行徳のいわれと歴史」と記された大きめの案内板が立っていました。
それによると、行徳は、一説によれば大永7年(1527年)に金海法印という山伏が、伊勢内宮の土砂を中州(現在の江戸川区東篠崎町)の地に運んで、神明神社を建立したことから始まったという。この金海法印は徳が高く、行いが正しかったことから、多くの人々に「行徳様」と敬われ、その「行徳様」が行徳の地名になったといわれているとのこと。
しかし、応安5年(1372年)の「香取文書」に「行徳」の地名が記されているから、室町時代以前からこのあたりに集落があったとも考えられているという。
中世になると、このあたりは里見氏、北条氏の所領となり、「塩づくり」が古くから行われていましたが、江戸時代になって徳川家康がこの地を天領として、「塩づくり」を保護するようになると、盛んに「塩づくり」が行われるようになっていきました。塩田で働く人々が、本行徳付近から行徳街道沿いに集落を形成していきました。
また江戸からの玄関口として「新河岸」に船着場が設けられたことにより、「行徳船」と呼ばれる定期船が往来、宿場町としても発展していきました。
訪れた人々として、松尾芭蕉・葛飾北斎・歌川広重などの名前が記されていました。
さらに、行徳街道はかつて「成田道」と呼ばれ、新河岸ら現在の寺町通りを通り、下妙典を左手に折れ、田尻、原木(ばらき)を経て成田街道へと通じており、「江戸庶民の成田参詣の通り道として」賑わった、とも記されていました。
その説明文の下には、「大正時代の行徳街道(本行徳付近)」の古写真も掲載されており、瓦葺きの商家や電柱が街道沿いに立ち並ぶ、かつての本行徳の様子がよくわかります。真夏の頃の写真で、街道を行く人々(1人の男が自転車に乗っている)はまばらです。
大きな石積みの倉庫や、洋風2階建てだが玄関口の小屋根は和風という「平川医院」(その奥に接する建物は新建築の2階建て)を見て、「神明(豊受)神社」の前に出ました(14:07)。
その案内板には、「行徳五ヶ町の大祭」として神輿の渡御のことが記されていました。
少し通りを戻って、「寺町通り 本行徳」という看板を見て、通りを左折。その通りは左側が石畳のきれいな歩道になっており、その通りに沿って妙頂寺(日蓮宗)、妙応寺(日蓮宗)、長松禅寺(臨済宗)、徳願寺(浄土宗)などが並んでいました。
このうち「長松禅寺」は山号を「塩場山」と言いますが、これは開山された天文年間(16世紀前半)、このあたりが「塩場」(塩田)であったことに由来し、本尊の薬師如来は、塩焼の労働者たちの信仰を集めていたと、その案内板にありました。
「行徳徳願寺」は『江戸名所図会』にも、その絵が載っており、それを見ると、寺町通りや神明(豊受)神社前の下新宿あたりの街道を、多くの人々が行き交っている様子がわかります。
その「徳願寺」の境内へと、山門を潜り入ってみました。
続く
○参考文献
・『行徳の今と昔』(行徳郷土史研究会)
・『郷土読本 市川の歴史を尋ねて』(市川市教育委員会)
また「笹屋うどん跡」という標柱のある建物もあり、その標柱の説明によれば、この「笹屋」は、江戸時代にうどん屋として繁盛した店で、船着場近くに位置していたため、立ち寄る旅人が多かったという。全体の造りは「加藤家主屋」とよく似ていますが、「加藤家」のような玄関入口の半円形小屋根はない。戸は閉ざされており、現在も営業しているような気配は見られない。
この通りには古い商家がところどころに点在しており、やはり文化庁「登録有形文化財」の「旧浅子神輿店店舗兼主屋」や、今もしっかり営業している「有限会社藤井畳店」などがありました。
「神明宮」(神明神社)も、この「行徳街道」に面してありました。「新河岸」の常夜灯からはほとんど真東にあり、牛堀の「三熊野神社」と「牛堀河岸」との関係から考察すると、かつてはこの神明神社より行徳街道を突っ切って「新河岸」際の常夜灯まで、一直線に参道が延びていたとも考えられます。
その「神明神社」の案内板には、創建年代は不詳、豊受大神(食物を司る神)、伊勢神宮の外宮の祭神、四丁目の鎮守として建立、などとありました。鳥居を潜った石畳の参道両側には銀杏(イチョウ)の古木があり、これも崋山は目にしているかも知れない。
「八幡神社」も、「行徳街道」に面してありました。案内板には、御祭神は「誉田別命(ほんだわけのみこと)」で、それは「第十五代応神天皇の名」のことで、創立年代は不詳。さらにその案内板には「富士塚について」という説明もありました。ここの境内にはどうも富士塚があるらしい。
ということで「八幡宮」の額の掛かった鳥居を潜り、社殿の裏側へと回ってみると、ブランコのあるミニ公園があり、その向こうに確かに「富士塚」がありました。岩石や溶岩状のもの(ボク石)で覆われていて、頂きには石の祠(富士浅間大神を祀ったもの)が設置されています。登山道の途中には「小御嶽神社」と刻まれたやや大きな石碑も立っています。
いつ頃に造られたものかは分かりませんでしたが、かつてこの地域にも「富士講」があったことを示すものでした。
この「八幡神社」も、「神明神社」で推測したのと同様にかつては「新河岸」まで参道が直結していたのではないか。
ふたたび「行徳街道」を北上。「塩小売店」とか「宮崎薬局」など古い商家を見て進むと、左手に「本行徳公民館」があり、その前に「「行徳のいわれと歴史」と記された大きめの案内板が立っていました。
それによると、行徳は、一説によれば大永7年(1527年)に金海法印という山伏が、伊勢内宮の土砂を中州(現在の江戸川区東篠崎町)の地に運んで、神明神社を建立したことから始まったという。この金海法印は徳が高く、行いが正しかったことから、多くの人々に「行徳様」と敬われ、その「行徳様」が行徳の地名になったといわれているとのこと。
しかし、応安5年(1372年)の「香取文書」に「行徳」の地名が記されているから、室町時代以前からこのあたりに集落があったとも考えられているという。
中世になると、このあたりは里見氏、北条氏の所領となり、「塩づくり」が古くから行われていましたが、江戸時代になって徳川家康がこの地を天領として、「塩づくり」を保護するようになると、盛んに「塩づくり」が行われるようになっていきました。塩田で働く人々が、本行徳付近から行徳街道沿いに集落を形成していきました。
また江戸からの玄関口として「新河岸」に船着場が設けられたことにより、「行徳船」と呼ばれる定期船が往来、宿場町としても発展していきました。
訪れた人々として、松尾芭蕉・葛飾北斎・歌川広重などの名前が記されていました。
さらに、行徳街道はかつて「成田道」と呼ばれ、新河岸ら現在の寺町通りを通り、下妙典を左手に折れ、田尻、原木(ばらき)を経て成田街道へと通じており、「江戸庶民の成田参詣の通り道として」賑わった、とも記されていました。
その説明文の下には、「大正時代の行徳街道(本行徳付近)」の古写真も掲載されており、瓦葺きの商家や電柱が街道沿いに立ち並ぶ、かつての本行徳の様子がよくわかります。真夏の頃の写真で、街道を行く人々(1人の男が自転車に乗っている)はまばらです。
大きな石積みの倉庫や、洋風2階建てだが玄関口の小屋根は和風という「平川医院」(その奥に接する建物は新建築の2階建て)を見て、「神明(豊受)神社」の前に出ました(14:07)。
その案内板には、「行徳五ヶ町の大祭」として神輿の渡御のことが記されていました。
少し通りを戻って、「寺町通り 本行徳」という看板を見て、通りを左折。その通りは左側が石畳のきれいな歩道になっており、その通りに沿って妙頂寺(日蓮宗)、妙応寺(日蓮宗)、長松禅寺(臨済宗)、徳願寺(浄土宗)などが並んでいました。
このうち「長松禅寺」は山号を「塩場山」と言いますが、これは開山された天文年間(16世紀前半)、このあたりが「塩場」(塩田)であったことに由来し、本尊の薬師如来は、塩焼の労働者たちの信仰を集めていたと、その案内板にありました。
「行徳徳願寺」は『江戸名所図会』にも、その絵が載っており、それを見ると、寺町通りや神明(豊受)神社前の下新宿あたりの街道を、多くの人々が行き交っている様子がわかります。
その「徳願寺」の境内へと、山門を潜り入ってみました。
続く
○参考文献
・『行徳の今と昔』(行徳郷土史研究会)
・『郷土読本 市川の歴史を尋ねて』(市川市教育委員会)
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