鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

笛吹川流域の道祖神祭り その10

2018-02-18 08:11:37 | Weblog

 

 翌日(1月14日)は、まず笛吹川上流の「道の駅みとみ」を目指しました。

 「道の駅みとみ」で「山梨市・甲州市エリア・マップ」と「笛吹の里みとみ」マップを確認。

 さらに上流は渓谷ハイキングで有名な西沢渓谷となり、また秩父方面へ雁坂(かりさか)峠登山道が延び、「雁坂トンネル」が抜けています。

 かつて笛吹川上流の谷あいの集落であった広瀬村はダム湖である広瀬湖の底になっており、現在広瀬湖の南側に「水源の碑」や「ふるさと記念館」があります。

 笛吹川の流域には「大嶽山那賀都神社」や「川浦口留番所」跡、「笛吹の湯」などがあります。

 「大嶽山那賀都神社」は「身延道」(西河内路)を歩いた時に「西条立体」交差点の近くに「大嶽山」と刻まれた大きな石塔があり、その「大嶽山」とは何かと興味を持ったのですがそれと関係する神社であるでしょう。

 早朝で寒さも厳しいため付近を歩くことはせず、駐車場から車に乗り国道140号を南下しました。

 途中で国道140号から右手の谷あいへ下る道へとそれ、笛吹川に架かる橋を渡って「村指定文化財 大嶽山那賀都神社」と記された案内板の前に出ました。

 「赤の浦」と記された地名標示があり、このあたりの地名が「赤の浦」であることが分かります。

 「大嶽山那賀都神社」の案内板によると、この神社は大山祇神・大雷神・高龗神の三神を祭神とするもので、奥宮を国師ヶ嶽に置いているという。

 この地に遷座されたのは元正天皇養老元年(716年)であるとのこと。

 現在の本殿の竣工は明治8年(1875年)のことで、大工彫刻は伊豆小沢流の谷村の福田俊秀(石田徳蔵)が手掛けました。

 谷村(やむら)というのは現在の都留市の中心地。

 その谷村に「伊豆小沢流」という大工彫刻の一派があったことになります。

 奥宮が「国師ヶ嶽」にあって、そこから現在地に遷座されたということは、「大嶽山」とは「国師ヶ嶽」のことであると推測されます。

 山岳信仰や修験道と深く関係する神社であるのでしょう。

 その那賀都神社には立ち寄らずに川沿いの細い道を南下すると、左手に道祖神御仮屋と御山飾りを見つけました。

 道祖神御仮屋はコンクリートの四角い基壇の上に左右の石祠があるようであり、左の石祠が杉葉で覆われています。

 右側の石祠には石像とその両側に丸石が置いてあり、その丸石の上にはそれぞれみかんが載っています。

 杉葉で覆われた左側の道祖神御仮屋の入口には赤と緑の紙で作られた幣紙(?)が顔をのぞかせています。

 コンクリートの基壇の四隅からは竹の柱が立てられていて、笹葉の下部でそれぞれが注連縄で結ばれています。

 そして一本の竹が御仮屋に斜めに渡され、それにも注連縄が掛けられています。

 背後は笛吹川の清流。

 その道祖神御仮屋の右手の広場の一角に御山飾りがありました。

 木枠の支柱に竹柱が立てられ、上部の竹葉と中央部のリングから垂れる割り竹に赤・白・黄・青・ピンクの色紙が結わえ付けられています。

 その広場の真ん中には「どんど焼き」に使用されると思われる杉葉などが円錐形に積み上げられていました。

 その広場の横にあった建物には「釡口集会所」とあり、この地域の集会所であり、「どんど焼き」が行われる広場や道祖神御仮屋や御山飾りはその集会所の近くにありました。

 かつてはこのあたり一帯が広い道祖神場であったのかも知れません。

 釡口集落の「どんど焼き」は、笛吹川やその背後の山々を背にした広場で行われていることがわかりましたになります。

 そこから細い川沿いの道を南下してから笛吹川を渡り、国道140号に出てから途中で笛吹川の左岸へと渡って出たところが稲子沢(いなござわ)というところ。

 その笛吹川左岸の道を南下して行くと、カーブ右手に白い幟(のぼり)一本と道祖神御仮屋を見掛けました。

 幟には白地に「奉納 道祖大神 下柚木相模組中」と墨書されています。

 特筆すべきなのは杉葉で覆われた道祖神御仮屋の背後は大きな岩が半分に断ち割られたものであるようであり、その断面と後ろ半分の岩が露出していることでした。

 このような道祖神は初めて目にするものでした。

 

 続く



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