
「鉄砲町町内会」の町会板を見て、「旧鉄砲町」(現桜井町)に入ったのが7:21。江ノ口川の川岸はやがて昭和橋のたもとで遊歩道になりました。その遊歩道に入ってすぐに「高知城下町名今昔 旧鉄砲町」の案内板が立っていました。
この案内板は、今まで高知市内を歩いてきていろいろなところで見てきましたが、町歩きをするものにとってはとてもありがたい案内板で、今までも多くの情報を得ることができました。20年前に訪れた時にはなかった記憶があります。
その「旧鉄砲町」の案内板によれば、町名の由来は、江戸時代初期に江ノ口川堤防警護のために鉄砲方足軽をこのあたりに住まわせたことにあるとのこと。その後、その鉄砲方足軽は農人町に移転し、城下の大火で18の寺院が移転してくるものの、それも小高坂(こだかさ)村や潮江(うしお)村に移転してしまったという。
つまり、幕末に鉄砲足軽が居住していたわけではないということがわかります。
兆民が生まれ育った旧山田町と、この旧鉄砲町とは、堀川(横堀)に架かる刎橋(はねばし)で結ばれていました。
この幅1mほどの遊歩道は、かつての江ノ口川の堤防上の道、つまり土手道をしのばせる。しかしコンクリートでしっかりと護岸されているため、かつての川の風情は失われています。対岸には3~4階建てのビルや集合住宅が並んでいます。
一文橋を過ぎてまもなく、白い大きなモニュメント風の建造物が目に入り、近寄ってみると、「地球33番地標示塔」という案内板がありました。この塔は、東経133度33分33秒、北緯33度33分33秒を示すものでした。実際の地点は、この塔より北へ30m寄った川の中だといいう。ということは、このあたりの江ノ口川の川幅は30m以上はあることになる。
右手の商店には、「地球33番地到達証明書発行受付 地球33番地」の標示もありました。
横田橋、丸池橋を過ぎ、右手に丸池公園や返電所、下水処理場を見て前に訪れた弥右衛門橋に着いたのが7:46。ここが江ノ口川が国分(こくぶ)川に合流する地点となります。
旧山田町からはおよそ30分弱の距離。
江ノ口川河口付近の両側は、現在は住宅やビルなどが建ち並んでいますが、かつては田んぼが見渡す限り広がっていたものと思われます。
この国分川の川岸にやってくると、川の向こう(南東方向)に五台山のなだらかな山容が見えて来ますが、かつてはもっと手前から田んぼの向こうに見えたに違いない。
その国分川の川沿いに南下し、右手に「ルミエール」を見て、葛島橋のところで歩道橋を渡って周辺の景色を確認し、戻って左折(西へ進む)。
東雲橋を渡り、右手に多賀神社を見ましたが、このあたりが「旧中新町」。まもなく例の「町名今昔 旧中新町」も立っていました。
中新町は西の蓮池町から続いていて、「蓮池町筋新町」とも呼ばれていたとあり、また町内には幕末の陽明学者岡本寧浦(ねいほ)の塾舎跡の碑もある、とありました。
途中で左折して通りを進んで行くと、左に入る通りのやや向こう右側に石碑らしきものを見かけたので、ちょっと気になって近寄ってみると、それは「細川潤次郎先生誕生地」と刻まれた石碑でした。
その石碑の右側は駐車場になっています。
「細川潤次郎の屋敷はここにあったのか」
細川潤次郎は、兆民の通った藩校文武館の蕃学教授の一人。この人物の兆民への思想的影響は大きいものがあったと私は考えています。おそらく兆民を長崎留学に推薦したのも、この細川潤次郎。この細川が中浜万次郎から英語を学び、親しく交友を結んだということは確実で、兆民の思想は、万次郎→細川潤次郎のラインを無視しては成り立たないと私は考えています。
もとの通りに戻って南進すると、「町名今昔 南新町」がありました。それによると、南新町は西の新市町から続くことから「新市町筋新町」とも呼ばれたという。幕末、土佐藩の法規『海南政典』の制定に参画した学者であり、英語にも通じて明治政府の諸官を歴任した細川潤次郎はこの町の出身である、とも。
通りの上には、「さえんば」と記された看板が架かっており、まもなく出た通りは電車通り。すなわち国道55号線。左手のバス停は「菜園場」でした。
そこから横断歩道を渡って、農人町へと入りましたが、早朝その店前を通った「村田建材店」は店を開いており、中をのぞくと建材関係の商品が棚の上に整理されて並んでいました。
農人町の堀川沿いの通りをしばらく歩いてから駐車場に戻り、今度は「土佐山」へと向かうことにしました(8:49)。
続く (※しばらく、9月の取材旅行報告のため中断します)
○参考文献
・『中江兆民』飛鳥井雅道(吉川弘文館)
・『中江兆民評伝』松永昌三(岩波書店)
この案内板は、今まで高知市内を歩いてきていろいろなところで見てきましたが、町歩きをするものにとってはとてもありがたい案内板で、今までも多くの情報を得ることができました。20年前に訪れた時にはなかった記憶があります。
その「旧鉄砲町」の案内板によれば、町名の由来は、江戸時代初期に江ノ口川堤防警護のために鉄砲方足軽をこのあたりに住まわせたことにあるとのこと。その後、その鉄砲方足軽は農人町に移転し、城下の大火で18の寺院が移転してくるものの、それも小高坂(こだかさ)村や潮江(うしお)村に移転してしまったという。
つまり、幕末に鉄砲足軽が居住していたわけではないということがわかります。
兆民が生まれ育った旧山田町と、この旧鉄砲町とは、堀川(横堀)に架かる刎橋(はねばし)で結ばれていました。
この幅1mほどの遊歩道は、かつての江ノ口川の堤防上の道、つまり土手道をしのばせる。しかしコンクリートでしっかりと護岸されているため、かつての川の風情は失われています。対岸には3~4階建てのビルや集合住宅が並んでいます。
一文橋を過ぎてまもなく、白い大きなモニュメント風の建造物が目に入り、近寄ってみると、「地球33番地標示塔」という案内板がありました。この塔は、東経133度33分33秒、北緯33度33分33秒を示すものでした。実際の地点は、この塔より北へ30m寄った川の中だといいう。ということは、このあたりの江ノ口川の川幅は30m以上はあることになる。
右手の商店には、「地球33番地到達証明書発行受付 地球33番地」の標示もありました。
横田橋、丸池橋を過ぎ、右手に丸池公園や返電所、下水処理場を見て前に訪れた弥右衛門橋に着いたのが7:46。ここが江ノ口川が国分(こくぶ)川に合流する地点となります。
旧山田町からはおよそ30分弱の距離。
江ノ口川河口付近の両側は、現在は住宅やビルなどが建ち並んでいますが、かつては田んぼが見渡す限り広がっていたものと思われます。
この国分川の川岸にやってくると、川の向こう(南東方向)に五台山のなだらかな山容が見えて来ますが、かつてはもっと手前から田んぼの向こうに見えたに違いない。
その国分川の川沿いに南下し、右手に「ルミエール」を見て、葛島橋のところで歩道橋を渡って周辺の景色を確認し、戻って左折(西へ進む)。
東雲橋を渡り、右手に多賀神社を見ましたが、このあたりが「旧中新町」。まもなく例の「町名今昔 旧中新町」も立っていました。
中新町は西の蓮池町から続いていて、「蓮池町筋新町」とも呼ばれていたとあり、また町内には幕末の陽明学者岡本寧浦(ねいほ)の塾舎跡の碑もある、とありました。
途中で左折して通りを進んで行くと、左に入る通りのやや向こう右側に石碑らしきものを見かけたので、ちょっと気になって近寄ってみると、それは「細川潤次郎先生誕生地」と刻まれた石碑でした。
その石碑の右側は駐車場になっています。
「細川潤次郎の屋敷はここにあったのか」
細川潤次郎は、兆民の通った藩校文武館の蕃学教授の一人。この人物の兆民への思想的影響は大きいものがあったと私は考えています。おそらく兆民を長崎留学に推薦したのも、この細川潤次郎。この細川が中浜万次郎から英語を学び、親しく交友を結んだということは確実で、兆民の思想は、万次郎→細川潤次郎のラインを無視しては成り立たないと私は考えています。
もとの通りに戻って南進すると、「町名今昔 南新町」がありました。それによると、南新町は西の新市町から続くことから「新市町筋新町」とも呼ばれたという。幕末、土佐藩の法規『海南政典』の制定に参画した学者であり、英語にも通じて明治政府の諸官を歴任した細川潤次郎はこの町の出身である、とも。
通りの上には、「さえんば」と記された看板が架かっており、まもなく出た通りは電車通り。すなわち国道55号線。左手のバス停は「菜園場」でした。
そこから横断歩道を渡って、農人町へと入りましたが、早朝その店前を通った「村田建材店」は店を開いており、中をのぞくと建材関係の商品が棚の上に整理されて並んでいました。
農人町の堀川沿いの通りをしばらく歩いてから駐車場に戻り、今度は「土佐山」へと向かうことにしました(8:49)。
続く (※しばらく、9月の取材旅行報告のため中断します)
○参考文献
・『中江兆民』飛鳥井雅道(吉川弘文館)
・『中江兆民評伝』松永昌三(岩波書店)
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