鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

「企画展 渡辺崋山・椿椿山が描く 花・鳥・動物の美」について その8

2013-11-03 05:02:28 | Weblog
小田野直武(1745~1781)が「富嶽図」を描いたのはいつのことか。それがわかるのが今橋理子さんの『秋田蘭画の近代』のP149の記述。直武は安永6年(1777年)の12月24日(旧暦)、秋田への帰国を前に江戸に在った主君佐竹義躬のもとを訪れ、その際に相良特産のワカメを贈っているという。このことから、直武が相良へ旅をしたのは安永6年12月下旬にそれほど遡らない時期だったのではないかと推測されているとのこと。つまり直武が「富嶽図」を描いたのは、安永6年(1777年)のことであるということになります。直武は数えで33歳の冬(おそらく12月中旬)、東海道を西行し、清水から三保の松原へ出て駒越あたりで「富嶽図」を描き、御前崎手前の相良(さがら)あたりまで赴き、藩主への贈り物としてワカメを購入したというのです。直武はその際、沼津宿の手前の黄瀬川でも富士山の「真景図」を描いているらしい。その「紅毛流の正うつし」の絵は、後に京都へ旅した秋田藩江戸留守居役平沢常昌(つねまさ)が、黄瀬川に架かる橋を渡った時に思わず思い出してしまったほど、平沢にとって脳裡に刻まれるものであったようです。「不忍池図」の芍薬の花の背景として描かれる不忍池の風景は、まさに「紅毛流の正うつし」であり、それを観る人々は、手前の沈南蘋(しんなんぴん)流の芍薬の花よりも、それや樹木の幹などによって強調された、その向こうに広がる水面や雲や空を含む対岸の風景の伸びやかさ(「紅毛流の正うつし」=西洋流の真景図)に、きわめて強い印象を受けたのではないだろうか。 . . . 本文を読む