鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.1月取材旅行「日本橋~板橋~戸田」 その2

2012-02-01 04:29:08 | Weblog
天保2年(1831年)10月11日の朝は、雨が降っていました。出立前に所要を済ませた崋山は、やって来た友人たちに見送られ、早朝に田原藩上屋敷の門を出て、青山に居住する太白堂を訪ねて毛武地方の俳人たちへの紹介状をもらい、また小林蓮堂を訪ねて蕪村が描いた奥の細道を模写したものを何枚か渡したとありますが、その日の路程の長さを考えると、それほど長居したものとは思われない。所要を済ませるとすぐに板橋宿へと向かったのでしょう。「太白堂」というのは、懇意にしていた俳人(俳諧の宗匠)江口弧月(太白堂六世)のことであり、9月に大山街道をたどって「お銀さま」を訪ねた時も、この「太白堂」から相模地方の俳人たちへの紹介状をもらっており、この「太白堂」の紹介状は地方の俳人たちに「意外なほど効き目」があったようだと、芳賀徹さんは記されています。文政8年(1825年)の「四州真景」の旅においても、銚子における滞在先行方屋(なめかたや)大里庄次郎は「桂麿」という号を持つ地方俳人であり、銚子を訪れた一茶を泊めてもてなしたこともある教養人であり、もしかしたらやはりこの「太白堂」と何らかのつながりがあったのかも知れない。崋山自身も俳句を詠み、また芭蕉の俳句集に目を通しているなど芭蕉にかなり影響を受けているから、地方の俳句をたしなむ旦那衆と俳句を詠み合ったり、芭蕉の俳句を論じたりすることも出来ただろう。「四州真景」の旅の際、彼には芭蕉の『鹿島紀行』が意識されていたことは確実です。 . . . 本文を読む