鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.2月取材旅行「戸田~大宮~上尾」 その3

2012-02-23 05:29:03 | Weblog
生田万との話に夢中になって、沿道の風景をほとんどじっくりと見ることのなかった崋山に代わって、志村から桶川宿までの沿道風景を書き残してくれたのは村尾嘉陵(源右衛門)でした。記されているのは『江戸近郊道しるべ』の「中山道大宮紀行」で、その日帰りの旅がなされたのは文政2年(1819年)10月4日(旧暦)のこと。崋山が『毛武游記』の旅に出たのが天保2年(1831年)の10月11日(旧暦)のことだから、季節的にはほとんど同じ頃であり、沿道の風景は12年後のそれもほとんど変わってはいないとおもわれる。村尾嘉陵がその日、自宅を出立したのは「とらの一点」(午前四時半)ばかり。板橋宿では鶏の声があちこちから聞こえてきたけれども、宿場はまだ戸を下ろして寝静まっています。清水坂を下って湿原地帯の縄手を行き、「戸田の渡し」(荒川)を渡ると、まもなく元蕨村を経て中山道第二の宿である蕨宿を通過します。嘉陵は、「蕨上下にて、田七分、畑三分の地也、宿の人家ある所十一丁ありと云」と記しています。中山道に沿った長さ「十一丁」(約1100m)ばかりの街村(宿場町)でした。往きに通過した時は夜明け前で暗かったのが、帰りには日暮れ前に蕨宿に到着しており、そこの「中村や作兵衛」という茶店に立ち寄って夕食を摂っています。この茶屋の主人から、嘉陵は、かつての城主渋川氏のことについて詳しく聴き取っています。 . . . 本文を読む