鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.1月取材旅行「新川口~本行徳~妙典」 その8

2011-02-04 05:36:06 | Weblog
『行徳の今と昔』(行徳郷土史研究会)によれば、「新河岸」の常夜灯は現在のより小さいのが2基あって、合計3基の常夜灯が船着場にあったという。同書によると、行徳の塩は、奈良時代の頃から生産されており、そして「大体、東西線より東側の土地は、昔、行徳塩を生産した塩田があったところ」だという。『郷土読本 市川の歴史を尋ねて』(市川市教育委員会)によれば、江戸付近の沿岸の塩田としては、行徳・金沢・六浦・六郷・大師河原・五井・深川洲崎の平井新田などがあり、このうち行徳付近には「塩浜二六ヵ村」というのがあって、堀江・猫実・当代島・新井・欠真間・本行徳などはその「二六ヶ村」に含まれていました。堀江村・猫実村・当代島村の3ヶ村は、江戸時代においては江戸幕府の直轄領として下総国行徳領に属していましたが、明治22年(1889年)に、欠真間村の飛び地を加えて「浦安村」となりました。ということは、今まで私が歩いてきた浦安や新井・欠真間、そしてこの本行徳などは、かつては「塩浜」(塩田)が広がっていた地域ということになる。しかし「新浜」とか「古浜」とか「荒浜」とかいった地名があるように、塩田地帯の移動があったようで、使われなくなった塩田は水田や蓮田などとして利用されるようになったようです。また明治30年代に入ると、大規模な海苔の養殖も始まっていくことになりました。残っていた行徳塩田は、昭和4年(1929年)の製塩地整理により完全にその姿を消すことになりました。「首切り地蔵」のところで出会った89歳のN・Jさんが、「私の小さい時には、行徳に塩工場があった」という話を聞かせてくれましたが、「89歳」というと1922年(大正11年)頃の生まれということになり、昭和4年の時、N・Jさんは7歳頃(小学校1、2年生)ということになるから、かろうじて残っていた塩田や塩工場の記憶があるというのも、当然ということになる。塩田が水田や畑と化した行徳一帯は「行徳水郷」と言われて農業が盛んでしたが、昭和40年代に「土地区画整理事業」で盛土工事が行われ、そして昭和43年(1968年)に地下鉄東西線か開通すると、急激な人口流入と宅地化が進んでいくことになりました。 . . . 本文を読む