鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.1月取材旅行「新川口~本行徳~妙典」 その最終回

2011-02-06 05:01:56 | Weblog
崋山一行が、本行徳の「新河岸」に上陸して「大坂屋」で昼食を摂った後、成田街道沿いの宿場町である八幡宿の葛飾八幡宮へと向かったのは確かなことです。ではどの道をたどったか、と考えた時、行徳の案内マップを見て、まず私が推測したのは、「神明(豊受)神社」の手前を「寺町通り」に入って、「徳願寺」門前を通ってから、途中で左折して「成田道」へと入ったのではないか、ということでしたが、「徳願寺」の案内板にあった『江戸名所図会』の「行徳徳願寺」の絵を見たことにより、「寺町通り」へと右折せずに、「神明(豊受)神社」の前を通ってそのまま八幡宿へと向かったのではないかと思われてきました。というのも、『江戸名所図会』「行徳徳願寺」には、門前にいわゆる「寺町通り」が描かれていますが、左上の「神明(豊受)神社」前にも通りが描かれており、しかも絵の上でのことではあるけれども、その道の方が人通りが多いからです。浦安から行徳を経て八幡宿へとぶつかる道を「八幡道」あるいは「八幡通り」と、地元の人々は呼んだものと思われますが、その道は、「行徳徳願寺」の絵において左上に描かれている、人通りの多い方の道であるでしょう。私は今回、「寺町通り」→「成田道」→八幡宿というルートを、崋山一行が歩いたものとして、その「成田道」が江戸川(放水路)とぶつかるところまで歩いたのですが、崋山一行は、「八幡道」をそのままずっとまっすぐに歩いて、まず八幡宿の葛飾八幡宮へ向かったものと思われてきました。 . . . 本文を読む