鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.10月の「大磯宿・二宮・国府津」取材旅行 その5

2007-10-27 06:26:45 | Weblog
フュウレ一行がその頂きに登った山西村の「新林の森」とは、いったいどこだったのか。慶応3年(1867年)の夏の暑い1日、「新林の森」に入ったフュウレらフランス人3名と幕府役人は、そこで横須賀製鉄所関連施設の建築用材に適した木々を探しまわったのです。『二宮町史』通史編によれば、山西村は一村全てが幕領で、三ヶ所の幕府直轄林(「御林(おはやし)」)がありました。それは吾妻山と浜辺と須崎。「浜辺」は川西村の海岸沿いの松林で、「須崎」は川匂(かわわ)神社付近の松林でした。となると、彼らがその頂きに登ったという「新林の森」とは、「吾妻山」しか考えられない。「浜辺」にも「須崎」にも、その頂きに登るほどの高い山はないからです。「御林」(幕府直轄林)である吾妻山には、かつて1000本前後の松の木が生えていたらしい。全国各地の「御林」は、勘定奉行配下の御林奉行により調査が行われましたが、これを「木数改め」と呼びました。二宮村(ここには5ヶ所の御林があった)や川西村の「御林」の木材(主に松の木)は、江戸城材として、また橋などの普請用材として利用されたとのこと。幕末には、品川の御台場を築造する際にも利用されたようです。二宮村から川西村に入り、そこから吾妻山に登ったとなると、おそらく現在の「吾妻神社前」バス停のあたりから東海道を右折し、梅沢から吾妻神社に通ずる参道(私が先ほど登った登山道)を登ったことになります。現在、吾妻山には松の木はほとんど見ることは出来ませんが、「御林」であった江戸時代においては、多数の、それも巨大な松の木が、山一面に生えていたことになります。樹相が現在のそれとはまるで違っていたのです。吾妻山(=「新林の森」)に登った翌日、フュウレ一行は、大磯宿から四ノ宮・田村を経由して厚木に向かい、そこで宿泊しています。目指すは相模川の上流、津久井県(現相模原市津久井町)に点在する「御林」でした。 . . . 本文を読む