鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.10月の「大磯宿・二宮・国府津」取材旅行 その2

2007-10-24 06:11:32 | Weblog
 天保8年(1837年)の3月、韮山代官江川太郎左衛門(英龍)が、勘定奉行に提出した上申書によれば、「去申年(さるさるどし=天保7年)之儀者(のぎは)稀成(まれなる)凶作」で、江川太郎左衛門の支配所がある「武蔵・相模・伊豆・駿河・甲斐」の国々においても、多くの人々はたいへんな「困窮」に見舞われました。米穀が「払底(ふってい)」して「高直(たかね)」になったことにより「事起(ことおこ)り」、相州大磯宿や豆州下田町においては「打毀(うちこわし)」が発生。武州八王子宿においても「打毀」を企てる者が現れる始末。江川太郎左衛門は、「相州大磯宿のもの共(ども)、大勢寄集(よせあつまり)、米屋共を打毀(うちこわ)」した、と記していますが、これが「大磯宿打ちこわし」と呼ばれる事件でした。これら頻発する「打ちこわし」に危機意識を強めた代官江川太郎左衛門は、手代たちを「廻村(かいそん)」させて「圍米(かこいまい)」をおこなっていた者たちを「厚く教諭」させるばかりか、自らもその年の秋に「豆駿州」を「廻村」して「教諭」をおこない、さらに天保8年(1837年)3月には、斉藤弥九郎とともに、「刀剣行商人」に変装して「甲武相三州の地」を歩き、自ら支配地の民情と役人の勤務振りを精査したほどでした(『江川坦庵全集』)。 . . . 本文を読む