ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

巌殿観音の銀杏が色づき始めました ・・

2013-12-05 12:03:13 | 名勝

寺伝によれば・・・

沙門逸海が千手種観音像を刻み開山し正法庵と称し、鎌倉期頼朝が比企能員にに命じて復興し、頼朝の妻北条政子の守り本尊だったと伝わっている。度々時の権力者から社領を与えられ、家康からも寺領二十五石の朱印地を与えられている。

仏閣は巌殿丘陵の最東端に位置し、物見山のすぐ隣にあるため、寺は急傾斜地を切り崩したような場所にあり、山寺の雰囲気を持つ。大東文化大学に隣接・・・

この寺を有名にしているのは、岩殿山中腹を堀崩して平坦にし、寺院を建立した。堀崩した時、寺院の背後は岩壁が顕わになり、そこに多くの懸崖仏が彫って奉納安置された。それが物見山の風光と相まって、山寺の雰囲気を醸しだし、地元の尊敬を集めている・・・

 岩殿観音・・正式名称・岩殿山正法寺

寺は、大銀杏を持つ。この大銀杏は、ようやく色づき始めた・・・・

 この、やや遠景は、鐘楼の脇の小径を上り、懸崖仏の鎮座する上から撮影しました・・・

正法寺の紅葉・・・・・

 

 

・・・樹高は約25メートル、根周りが約11メートル(株立ち)ほどもあり、樹齢は700年を超えと推定されています。江戸時代の天保年間に書かれた正法寺縁起の絵図にも描かれています。イチョウの葉が木の周り一面に敷きつめられるとまるでじゅうたんのようになり訪れた人を幻想的な世界へいざないます。・・・

この銀杏の木には思い入れがあります。かつて、”つれ”が大病を患った時、大きな生命力を感じて、入院前に訪問し、また退院してからも参詣しました。以来欠かさずに毎年この時期にやってきます。本来そうゆうことを信じないのですが、あえて反対もせず、付き添います。・・・生命力とかパワースポットとかとは別に、ここの銀杏とこの寺の雰囲気は、安らいで、かなり気に入っています

  

寺なのに、狛犬が鎮座します・・・神仏習合の名残なのでしょうか。本来、仏は眷属を持ちません・・・。苔むして、かなりの年期もののようです。

鐘楼の脇に、里に下る小径と、登るけものみちのような道があります。登って、懸崖仏の上に、行ってみます。そこにも石仏が、20-30ぐらい、安置されていました。

  

   

 

 ・・・ 県道から、巌殿観音の下りの入口付近の、”椿”のトンネル・・・

・・・・・巌殿観音・歴史の由緒・

この寺は、北条得宗家と深い関係があります。頼朝が、比企能員の提案を受けて、能員に、巌殿観音・正法寺の復興を命じました。この経緯で、正法寺は、北条政子の守り本尊になりました。比企能員は、この地の生まれではありませんが、ここは頼朝の乳母、比企尼のさとであります。能員は比企尼の養子になって、比企を名乗る事になったと言われています。比企族は、この地方一帯を統べる藤原系の豪族です。頼朝が死んだ後、鎌倉比企一族は、外戚北条家を超える勢力になろうとした時、北条家に謀殺されて、一族は壊滅状態になります。・・・これが世に言う、比企の乱です。この乱の時、当時生まれたばかりの嫡子が助け出されて、この地に逃げ、正法寺復興の時、比企能員と復興の実務に当たった別当に、隠し育てられた、と言われています。この別当は、近くの川島町に住み、やがて別当寺になります。比企家の血筋は、鎌倉時代の北条得宗家の時代、世に隠棲して命脈を繋いだと言われています。その寺の名前は、金剛寺(川島町)といい、比企一族の歴代の墓が現在まで続いております。・・・このストーリーに、疑いのある所もありますが・・・

参考・・・ 比企の地名の由来 と 比企一族について

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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