ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

大宮 氷川神社 &参道

2013-05-01 19:12:31 | 史跡

4月30日 午後

大宮氷川神社の参道に、大鳥居が三つある。

第一の鳥居


             武蔵国一宮、吉敷町これより18町で宮。
         1町が110m(約)だから、約2Kmの距離。30分ぐらいかかる。

      神社までに、町区割りで4・・吉敷町、東町、浅間町、そして神社のある高鼻町。
    やれやれ、大きな神社だこと。

 

第二の鳥居


大宮駅からの参詣者は、この鳥居から入る。祭りの時、出店はここから宮までが主で、補助で大宮公園駅とナックファイブスタジアムのルートにも出店は出る。

 

第三の鳥居。

神社の目前に位置する。この鳥居には屋根がある。



     赤い欄干を渡れば、そこは氷川神社の門。

 

 楼門 

 

 本殿

でも、みんなは、本殿に、御神体がないのは 知っているのだろうか。本殿というのは拝殿のことである。

御神体のあるのは、奥の院と呼ばれる。

縁起を辿れば、日本武尊が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って当社へ詣でたところ、立てるようになったという伝説が残されている。このことから本地域を「足立」と称するようになったとされる。大宮が足立であるとは、すぐに納得がいく話ではないが、とにかく古くからあるらしい。世に数多く存在する足立神社はみな此処に由来するらしい。足立神社は安達、足達、安立とも書き、同じものらしい。この話は、永六輔のラジオでの話を記憶していて書いている。ちなみに、永六輔は神主の子であるそうだ。その他の氷川神社の縁起はネットを調べれて参照すればいい。


祭りの時の参道の出店は、両側に並び、それは賑やかだ。出店は屋台ともいう。
それで、出店の歴史を振り返ってみようと思う。

中世の出店の原型

中世は、自給自足が経済の基本であった。その頃は、今の町並みはほとんど無く、街の集積は、秀吉の刀狩りで兵農が分離され、城下に兵が集められ、貨幣経済の発展とともに商業集積が始まり、やがて町として形成されていった。それまでの地方豪族は、おもに山城に住み、その家臣は、通常は農民で事あらば武装して侍になり、豪族の周辺に散在して住み、経済の基本は自給自足であった。だが、日常食料以外の調達は、どのようにしていたのだろうか。小型で軽量の物は、おそらくは行商がいて、それに頼っていたのだろう。しかし、大型で重い物や使用頻度の少ないものは、生産所に直接行っていたのだろうか。農機具や鍋釜や食器やもろもろ、それでは、効率が悪くてしょうがない。
それで、やがて市が立つ。
市が立った場所を想定すれば、人が集まりやすい公共の場になり、神社仏閣の境内や参道が思いつき、そして定着する。。境内と参道を比べれば、参道の方がどうも敷居が低そうだ。この敷居の低い参道の出店は、最初、市として生活必需品からから始まり、街が形成されていき、店(たな)が増えるに従い、扱い品目が替わり、やがてテキ屋の取り仕切るところとなって、現在に繋がる。
こうしてみると、寺の境内に積極的に市を立てて大変に賑わい、経済的にも巨大化して、武士に対抗しうる勢力の成長を、戦国時代の中に例を見る。一向宗である。一向一揆でもある。
一向一揆を解説する文のほとんどが、その宗教的側面と対立する戦国大名との武力的ところのみが強調されてきて、一向宗の目指すところと経済的な基盤に言及したものは意外と少ない。しかし拠点の立地を見てみると、三河にしても、伊勢長島にしても、加賀吉崎にしても、船の物資物流に適する入江をもち、その入江を保護する真宗の寺院が中核になり、その寺院の境内で、領主の侵害を阻止する不入特権に守られた市があった。一向宗の宗徒に水運に携わるものと漁業に携わるものの多さは、特色である。また一向一揆が起こったところの共通項でもあるという。
また、この賑わいに目を付けて、取り入れた戦国武将がいた。市を寺院の境内から解放した、信長の楽市楽座である。そんな訳で、どうも城下町よりも門前街のほうが、商経済の成立の時代は早そうである。

それは、場所の使用権の特権とも結びつく。里山は誰のものかの入り会いと不入の権利と重なり、同様に、神社仏閣と境内や参道は誰のものかの、私有と公共の問題にもつながる。昔・・神社も寺もみんなのものであったようだ。

いまも祭りの出店は、神社仏閣のものでなく、みんなのもので、楽しい。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。