ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

土津神社・参詣

2018-11-14 19:02:47 | 神社・仏閣

土津神社・参詣

 

 

同期会・(旧職場)・18/11/10 in 猪苗代

土津を、”はにつ”とだれが読めるのだろうか?
まず、"はに”の意味解きから入ります。どうやら、土のことを”はに”という古語があったらしいです。その土は、鉄分を含んだ粘土質で、主に焼き物に使われたり、布を黄色に染める顔料だったりしたようです。この”はに”を土と書くことはごく稀で、「埴」と書く方が圧倒的に多かったようです。
「布を黄色に染める顔料だった」”はに”は、顔料の種類が少なかった時代、絹本着色といって、宗教絵画に使われた例が多かったようです。保科正之が、吉川神道の奥義を授けられた際に「土津」の霊神号を送られたことに由来したと伝承されていますが、吉川惟足は、このような古語に精通した人物であったのだろうと推測できます。それと、数奇な運命をたどった名君・保科正之は、仏教観では自分の人生観を整合できなかったのだろうと思うに至った次第であります。
土津神社から20分の奥の山中・高台に奥の院があり、そこが「保科正之」の墓所のようです。今回は準備不足で、奥の院まで行けなかったのですが、墓所の前に、土津神社の末社が、右に四社、左に三社控えて建っているそうです。正之の子息と重臣たちの末社・神社が「正之」を霊を守護するが如く侍っているようです。その家老たちの末裔は、何人かは今に馴染みの人で、知る人ぞ知る・

・下記に一部列挙・
  ・梁瀬正真 子孫・県知事や衆院議員
  ・田中正玄 子孫・田中清玄、田中玄宰(中興の主宰者)
  ・井深重光 子孫・井深大(ソニー創始者)
  ・会津藩の家老ではなかった人も、会津出身者は秀才が多いと聞く・・


 脱線・・
  過去に、学生だった頃・・興を覚えて、丹念に丁寧に、「田中清玄」の行動・言質を調べていたことがあります。当時日本共産党から徹底して嫌われた、右翼であったり左翼であったりした「清玄」は、僕の目からしたら案外一貫していて、”感”に入った人でした。
  清玄の先祖・正玄は、保科正之が15歳の時から仕え、教練の師となり、家老として差配した高遠と会津両方の藩の重鎮だったようです。保科正之が、磐梯山のこの山麓を墓と定めるとき、すでにそこにあった田中正玄の墓に向かって「正玄、ここにあるか、我も近く参るぞ」と言ったそうで、「父と見たか、師と見たか、あるいは・・」・・伴のものは皆涙したといわれています。

                       

土津神社の紅葉・・


白い鳥居が目立ちます。


 


・鳥居の起源

  ・-- 天岩戸の隠れた「天照大御神」を誘い出す「常世の長鳴鳥」の止まり木


・白い鳥居
  ・--- 本来は白だそうです。朱色の鳥居は、神仏習合より・(赤は魔除け)


・土津神社
  ・--- 磐梯山の神を祀る磐椅神社の末社

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