武蔵一之宮 二章・氷川神社は、本来は「ニ社」・・
毎朝の日課で、約Ⅰ時間10分、10000歩の散歩を課している。まあ・、ほぼ達成しているわけだが、時に気分で、コースを変えることもある。
普段は、近くに公園を四周強すれば達成できる目標だが、、今日は、街の方へ歩き、参道へ出て、「二の鳥居」を潜って、参道から「氷川神社」に入った。
「氷川神社」は、「武蔵一之宮」として知られる。
この形になったのは、明治維新以降・・、それまでの「氷川神社」については、案外知られていない。知られていても、かなり断片的だったりするようで・・・
それまで・・「神社の歴史」などに興味を持つものなどかなり「マイナー」で少数派だと思っていたのだが、ある時の問わられ語りに、案外食いついてくれた人がいたりして、それでは、、と書く気になった」という訳である。
とはいえ、この分野について、それほど物知りでもなければ専門家でもない。それどころか、連れ合いが大病し、「何か思うところ」があって、秩父札所回り(三十四巡礼)に行きたいと言い出し、暇を見つけて、秩父の寺を回り、合間に神社も参詣した時に、「アッシー」君の役割を担ったまでは、「神社の社叢の森」はひたすら薄暗く、なるべく近寄ることを避けていたぐらいであったのだが・・。
、「アッシー」君は、「アッシー」の役割だけでは暇を持て余し、行く先々の「神社仏閣」の由緒を眺めている内に、少しずつ知識が集積し、分からなかったことは、帰宅してから調べるようにもなり、いつの間にか蘊蓄が深くなっていったようである。
”武蔵一之宮:大宮氷川神社”は、創設当初は「二社」であった。
由来書・・
氷川神社の創設は、生没年 紀元前506~前393とり、孝昭天皇の時代とされるが、孝昭天皇の存在自体があやしいそうで不確か?紀元前の表記は、弥生時代を指すと思われる。景行天皇の御代、「氷川神社」で、日本武尊は東夷鎮定の祈願をなされたと伝わっており、成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝廷の命により武蔵国造となって当社を奉崇し、善政を敷かれてから益々当社の神威は輝き格式を高めたと伝わります。
男体:氷川神社と女体:氷川神社
氷川神社の存立する地名は、高鼻町といい、大宮台地に、鼻が突き出るような土地を示し名付けられました。この大宮台地に挟まれるように大きな沼があり、その岸辺に、間をおいて、「二社」の氷川神社があったということです。沼の名は、「御沼(みぬま)」、もう一つの「氷川神社」のある地名は「御室(みむろ)」と言いました。「御室」は今では「三室」と名を変えています。昔々の豪族の墓を意味します。、「御沼」も名前を変えて「見沼」になっています。。「御室」の方の「氷川神社」は女体社、高鼻の方は男体社と読んだようです。
この二社配置の在り様の”様”は、ほぼ「諏訪大社」の湖のほとりの「上社」と「下社」に似ており、「男体社」や「上社」が”須佐之男命”を、「女大社」や「下社」が”稲田姫命”を主祭神として祀っています。
この位置関係は、「太陽は夏至に西北西の氷川男体神社に沈み、冬至には東南東の氷川女体神社から昇るという、稲作で重要な暦を正確に把握するための意図的な配置となっている」そうで、大陸の遊牧民族の、道しるべやコンパスの、科学的方法論のようでもあり、出雲族や須佐之男の出自を覗わせるものとして興味深い伝承でもあります。