月の町 浦和
「二十三夜」って、なに?
今は”さいたま市”になってしまったが、
浦和の町の産業道路を走っていると、
太田窪辺りの交差点に、突然「二十三夜」と言う交差点に出くわす。
あれ・・、面白い名前の交差点、と思って、由来を尋ねてみた。
御丁寧に、交差点近くのバス停も「二十三夜」となっている。
そういえば、浦和には”調・つきのみや・神社”があり、
眷属が”うさぎ”で、月に関係しているらしい。もしや”浦和は月の町”、 ・・・と思ってしまう。
調べて見ると、江戸時代に隆盛を極めた民間信仰で、「二十三夜講」という講があったという。
所によっては、昭和の初期まで続いていたらしい。
なにも浦和に限らない、全国至る所にあった”月待ち信仰”だという。
「二十三夜講」の内容は、 ・・・
・・「二十六夜」など特定の月齢の夜、人々が集まって月の出るのを待って供物を供え、飲食を共にすること・・・毎月祀(まつ)る例は少なく、正月、5月、9月の3回、あるいは正月、11月の一定の月を祀る所が多く・・・月待は、組とか小字(こあざ)を単位とすることが多く、年齢によるもの、性別によるもの、あるいは特定の職業者だけの信仰者によるものなど、さまざま・・・講の組織になっていることが多くあります。・・
信仰の発生については、・・・武蔵野は安住の郷域でしたが、源氏の将扇谷上杉定正一族の勢力争いに端を発し、小田原の北条氏秦らが加わりここに果てしない戦渦が広がり、住民の多くはその被害はかりしれず、やがて農兵の徴発となり人々の恐怖の果てにおかれた・・・この頃当地方に起こったのが月待信仰(さんやまち)であり、後に「二十三夜まち」講として行事化されたと伝えられます。
これは、たまたま浦和の例ですが、他所でも同様の不安に駆られた出来事があり、この不安から、民観信仰が始まったのでしょうか。
「二十三夜講」とほぼ内容を同じくする”月待ち講”は十五夜講や十六夜講、十九夜講などがあったようですが、「二十三夜講」は陰暦の二十三夜の月は”下弦の月”で真夜中の月の出となり、先述の ・・・人々が集まって月の出るのを待って供物を供え、飲食を共にすること・・・で、絆を深め、運命共同体的な「一帯感」を醸成するには丁度良い時間の長さを有していたので、この特定の月齢の夜が圧倒的に多かったのだろうと思われます。月齢の月の形は上弦や満月、月の出は、宵の口や真夜中など様々。
信仰の対象はまさに”月”ですが、祈願塔、供養塔として板碑や石塔も多く、文字として”二十三夜”を刻印し、あるいは”勢至菩薩”仏像を彫刻したものもあるようです。
”勢至菩薩”
”勢至菩薩観音”と言うのが出てきました。
この観音さまは、月の観音さまで、知恵の仏様のようです。
難しく言えば、 ・・仏の智門を司り、衆生の菩提心を起こさせる。智慧の光を持って一切を照らし衆生が地獄・餓鬼界へ落ちないように救う菩薩。大勢至といわれる所以は多くの威勢自在なるものを「大勢」、大悲自在を成し遂げる(果)に「至」るから採られている、ということ。 ・・・と書いてあるが、よく分からない。 とにかく”円空”や”棟方志功”が愛した仏様であることは確認している。
善光寺の”背光三尊阿弥陀如来”でいえば、右側が”勢至菩薩”。ちなみに左は”観音菩薩”。形状的違いは宝冠で、勢至菩薩は宝冠に花があり、観音菩薩には宝冠に阿弥陀如来があるようです。真ん中の阿弥陀如来の左右の侍仏と言うことでしょうか。
ただ、「二十三夜講」は民間信仰なので、仏像まであるのは珍しく、ほとんどが路傍に石塔が鎮座する例である。同じ民間信仰なので、庚申塔と紛れる場合も多く、予備知識があると見かけたときに違いが理解出来るということだ。
浦和の、石像二十三夜塔は、ほかに、中尾の不動ケ谷戸と西堀日向にあるそうだが、どうやら、”調神社”の月とは無関係。
”調神社”の発祥は、律令時代の”租庸調”の”調”に由来し、租税の穀物を貯蔵した”倉庫”の跡が神社になったというのが、通説である。
”調”を”つきのみや”と読ませた所から、後世に、”月”とか”うさぎ”とかがこじつけられて、現在に到ったというのが本当のところのようで・・。
まあ・・・、夢のある話なので、あえて「いちゃもん」は控えたい。
追記 ・・・
「さんやまち」ともいう。「まち」というのは古語で「まつり」のこと。三夜待は二十三夜の尊、神道では月読命、あるいは三日月様と呼ばれる神々のこと。23日の月の出を待って、地区の街道すじにある二十三夜の石碑の前にむしろを敷き、当番の人が酒肴を持参して先ず神に捧げ、おさがりをいただいて四方山話に花を咲かせたという。
古式に則り宗教的な儀式をまず行ってから、飲食の宴が行われる。
後年は、親睦会の色合いの方がかなり強い。