ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

神津家と島崎藤村

2016-03-05 13:19:54 | 歴史

承前

ピンクのゾーンが志賀。隣に「神津牧場」があります。

神津牧場を造ったのは神津家ですが、神津牧場の地籍は群馬県、神津家は佐久市志賀にあります。県を別にしていますが、佐久の志賀と神津牧場は隣接しているのです。
佐久の志賀を地盤とする神津家は、信州の有数の豪農、名家だったそうです。この神津一族は、古くから志賀に跋扈し、分割相続しながら、この一帯を神津一族の勢力下としてかなり栄えたそうです。排出した経営者、文化人、芸術家も数多く、中村メイコのご主人の作曲家の神津善行の祖先もここだと聞きます。

一旦神津家から離れて、「志賀」のこと

戦国時代、佐久の志賀には「笠原清繁」という領主がおりました。中仙道や佐久街道を下っていくと寄居に通じます。寄居には、当時の関東管領・上杉憲政の軍事的橋頭堡の鉢形城があります。
笠原清繁は、関東管領・上杉方の武将でした。戦国時代の天文十六(1547)年・7月から8月にかけて、「小田井原の戦い」(=志賀城の戦い)がおこります。甲斐の武田晴信と信濃・志賀城主笠原清繁との間で行われた合戦と攻城戦です。晴信は佐久に侵攻し志賀城を包囲します。関東管領上杉憲政は志賀城救援の軍勢を派遣しますが、小田井原(御代田町)で武田軍に迎撃され潰走しました。救援の望みを失った志賀城は落城し、武田は佐久の制圧に成功します。

事実だけを列記すれば、戦国のよくある戦いの一つのようですが、この戦いは、信玄の初陣であり、その敗戦処理は凄惨を極め、女子は身売りされ、男子は奴隷として甲斐の金山へ連れて行かれ、金鉱堀に従事させられたといいます。
この「恨み」は、「末代まで、佐久の草木まで、叛くでしょう」といわれ、これを見た信濃の領主たちは、晴信の非情さに反抗を固め、越後の上杉謙信に援けを求め、「川中島の戦い」の源流になったといわれています。

神津家の源流のこと

伝承では、神津家の由来は、伊豆の沖・神津島に起因した一族で、漁業を生業にしていたが、不漁のとき島を離れて箱根の一色付近に移住し、やがて南北朝期に佐久の志賀に定住したといわれています。
・・・初代 神津町田 1360年~1382年(南北朝時代) 藤原朝臣、藤原房前(北家)の後裔にて、茂時又の名定國神津次郎と云う。その後にして伊豆神津島より、信濃国佐久郡棚畑に移り住むと云傳う。(21代神津康碩 1934年古文書より系図を興す。)・・・
しかしどうもその系図には得心がいきません。
笠原清繁が志賀城の城主の時には、志賀に神津家があったとすれば、笠原清繁の配下であったはずです。叛けば蹂躙されるので、そう考える方が合理的です。当時は、半農でかつ武士だったはずです。敗残の側になったのなら、栄華が続いたとも思えません。
想像力を働かせるなら、信玄当時、河口湖周辺一色にいた神津家は、信玄の部下として「志賀の戦い」のあと、志賀を代官として預かり、武田勝頼が敗れた後、志賀で帰農したと考えるか、あるいは「志賀の戦い」のあと、晴信の戦後処理をたくみに切り抜けたかですが、系図上で移住の時期をずらしたと考える方が筋道が通ります。どうでもいいことなのですが・


神津牧場の歴史

神津牧場は、明治20(1887)年に開設された日本で最初の西洋式牧場。地籍は群馬県甘楽郡下仁田町大字南野牧。物見山東斜面の広大な草原。
開設者は長野県・志賀村(佐久市)出身の神津邦太郎。広大な敷地に、茶色い毛並みのジャージー種をはじめ山羊やポニーが放牧されている。美しい牧草地にとんがり屋根の牧舎は、アルプスの高原牧場を思わせる。ジャージー牛乳と、ソフトクリームが人気アイテム。
拘りは、ホルスタインより野生に近いジャージー種の乳牛。


神津邦太郎の黒壁家

「黒壁家」ですが、なぜか白壁です。改築してこうなったのだそうです

神津邦太郎(1865-1930)は、酪農家、銀行家、政治家。日本初の西洋式牧場の開設者。
信濃国志賀村(佐久市志賀)の豪農の家に生誕。 豪農であった神津家は、「黒壁家」と17世紀後半に分かれた「赤壁家」がある。邦太郎は「黒壁家」の出身。
邦太郎は東京へ出て慶応義塾に入学。1905年から翌年まで農商務省から米国における畜産業に関する調査を委託され、コーネル大学やカリフォルニア大学で酪農について研究。酪農の振興を志し、1887年群馬県甘楽郡西牧村物見官有地を借地、牛舎を設置して神津牧場を開設。理想主義に走り過ぎたことから、経営不振に陥り、牧場は銀行家田中銀之助、明治製菓の経営となり、やがて法人神津牧場により運営。邦太郎は牧場経営以外、佐久銀行や長野農工銀行の重役、志賀村長、北佐久郡議会議員などをつとめた。

ここで、神津邦太郎と神津牧場から離れます。
ほかの「神津家の人々」を見てみます。この「神津家の人々」という表題自体がタイトルになるくらい慶応大学と関係が深く、「神津家の人々」という文字は、「三田文学」の方ではなく、「三田評論」に載った文章から拾っています。神津邦太郎は、福沢諭吉に師事し、諭吉との親交が深かった往復の書簡が残されています。


「神津家の人々」・・一部のみ抜粋

○神津藤平(1871-1960)・「赤壁家」:農林畜産業や銀行経営に関わり、長野電鉄の創設や志賀高原の観光開発など信州の経済発展に尽した。「志賀高原」という名称は、出身地、北佐久郡志賀村(現・佐久市志賀)に由来するという。
○神津猛・「赤壁家」(1882-1946):銀行を興し、佐久の養蚕、製糸業の振興に貢献。島崎藤村の「破戒」執筆に生活費の多額の援助を行い、文化に貢献。
○神津港人・「黒壁家」:画家。茂田井の大澤酒造/しなの山林美術館で彼がが描いた「信州風景」
○神津善行・「赤壁家」:作曲家。夫人は女優の中村メイコ。

などなど ・・多すぎて一部のみ抜粋


志賀高原の「志賀」

「三田評論」から
・・・ 大正三年、福澤桃介と電源開発の水源探査のため、志賀高原琵琶池を訪れて自然の素晴らしさを実感し、大正十年には湯田中に湯治に来ていた小林一三との沿線開発の会話から、湯田中までの開通を機に、志賀高原の麓にある上林ホテルをベースにして志賀高原の観光地開発に着手した。この辺りでは霧氷のことをシガと呼び、そこから丸池一帯をシガノタカハラと呼んでいたことと、藤平の故郷志賀村から、藤平は志賀高原と命名した。 ・・・

一説には「霧氷のことをシガと呼び、そこから丸池一帯をシガノタカハラ」と呼んでいたから、「志賀」は「志賀高原」を指す言葉として昔からあった、と一部には囁かれていますが、どうもこれは苦しい。「志賀高原」の誕生は、「三田評論」の説の方が説得力があります。
名づけ親はともかくとして、信州の誇る「大リゾート・観光地」の「志賀高原の」の開発は、神津藤平の関わるところが大きいようです。

神津藤平の人物像

・・・ 神津藤平
 神津藤平は、赤壁家分家の清三郎の次男として、明治四年に生まれ、明治二十一年に慶應義塾に入学した。
 卒業後、東京電灯に入社するが、二十三歳の時に両親の死と兄の病気のため、志賀に帰り、家業の薬用人参の栽培、北佐久産牛馬組合長、県会議員、神津合名会社設立、志賀銀行重役、長野電灯取締役などを務める。
 大正三年佐久鉄道(現・小海線)の相談役になり、大正九年河東鉄道(現・長野電鉄)取締役社長になって、屋代~木島間を開通、同十二年河東鉄道を長野電気鉄道に発展させ、同十五年長野電鉄として権堂(長野)~須坂間の運転を開始する。
 昭和三年湯田中まで路線が延長すると、沿線開発に手を付け始める。まず湯田中に近い上林温泉(山ノ内町)に温泉プール、食堂、小運動場、浴場、児童遊戯場、小動物園、スキースロープを備えた上林遊園地を開業、この時、上林ホテル仙壽閣をオープンした。和風の温泉宿にいち早くバス・トイレ付の客室をつくり、アールヌーボー調のデザインを和風建築に取り入れたものであった。
 上林ホテル仙壽閣は、今も長野電鉄の関連会社によって営業されている。客室から眺められる西庭には逝去一年後の昭和三十六年十月に建立された「神津藤平翁」の胸像がひっそりと置かれている。 ・・・ 「三田評論」から

赤壁家


「赤壁家」の神津猛と島崎藤村

神津猛のこと
・・・ 猛は、赤壁家神津禎次郎の長男として明治十五年に生まれる。赤壁家は天保年間には、一年の年貢米が数百石も運び込まれる豪農であった。道から門までは石畳が敷かれているが、年貢を運び込んだ荷車の轍の跡が今も残る。
 十歳の時に祖父包重の遺言で、赤壁家第十二代目の家督を相続すると、明治二十五年慶應義塾幼稚舎に入舎、同三十二年に慶應義塾を卒業した。大正六年志賀銀行を興し頭取となり、合併により信濃銀行に発展し常務取締役に就いた。
 猛は、福澤先生に発掘中であった芝公園丸山古墳に連れて行かれたことから考古学に興味を持ち、佐久の考古学の発展に寄与し、交遊のあった島崎藤村の生活費を援助するなど文化活動の興隆を促した。
 しかし、昭和四年の世界大恐慌により、多くの製糸工場が倒産、信濃銀行も破綻してしまった。猛は、三十二室もある赤壁家の屋敷のみを残して、田畑山林・書画などの資産は全て売り払ってしまった。 ・・・「三田評論」より
 
神津猛は、多才で特に考古学、禅の修業には趣味を越えるものを持っていたそうです。
神津猛は、俳人でもありました。
高浜虚子は、戦時中小諸に疎開をしており、その頃神津家と小山家に世話になったそうです。・・「高浜虚子の小諸、神津家と小山家」より。俳号は、「神津雨村」というそうです。
志賀村の「赤壁御殿」を訪ねたのは、藤村だけに限らず、田山花袋、室生犀星、有島生馬、小山内薫、柳田国男、高浜虚子、三宅克己、丸山晩霞等々日本の文化人総ナメであります。

島崎藤村:略歴・・小諸まで
明治5年2月17日、筑摩県馬籠村(現在:中津川市)に四男として生まれた。
明治14年 上京、泰明小学校、三田英学校(旧・慶應義塾分校)、共立学校(現・開成高校)、明治学院の学ぶ。『文学界』と浪漫派詩人;卒業後、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師。翌年『文学界』に参加
明治29年 、東北学院教師、この間に詩作にふけり、第一詩集・『若菜集』を発表して文壇に登場。『一葉舟』『夏草』『落梅集』の詩集。『落梅集』・「椰子の実」・「千曲川旅情の歌」など。
小諸時代から小説へ
明治32年 小諸義塾の英語教師として赴任。「千曲川のスケッチ」。
明治38年 小諸義塾を辞し上京、翌年『破戒』を自費出版。

佐久・岩村田から志賀まで約6Km、車で15分ぐらい

島崎藤村は、仙台・東北学院教師時代に、詩人として詩集を出版し既に名声を得ていたのだが、詩人では生活できないことを悟り小諸へ来たと思われる。小諸時代に、最初の小説のモデルとなった代議士が佐久・岩村田に在しておりたびたび岩村田を訪れる。この時代に、神津猛と交流があり「赤壁家」にも訪問している。散文小説家として身を立てる一大決心をしたが、教師を辞めて小説家として専任するには、小説が金になるまでの生活費と自費出版の費用が問題となり、これを”神津猛”に無心しようと・・・・「赤壁家」で供応を受けたときついに言い出せず、書状にしたためて、それを置いて「赤壁家」を辞したという。
あとで、その書状を見つけた神津猛は、当時経営状態が傾きかけていたのにもかかわらず奔走して金を工面し、知己の島崎藤村の生活費をも丸ごと援助していたのである。当時の金で1千円(今のお金で800万円相当)の資金を出したという。

「破戒」の冒頭にも神津猛への謝意
・・・「この書の世に出づるにいたりたるは、函館にある秦慶治氏、及び信濃にある神津猛氏のたまものなり。労作終るの日にあたりて、このものがたりを二人の恩人のまへにさゝぐ。」

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