二年参り
二年参りとは、初詣の形式の一つで、大晦日の深夜零時をまたがって神社仏閣に参拝・参詣する事を言う。年をまたいで行う為にこの名がある。
ということで、晦日も24時の35分前に家を出て氷川神社へ向かった。凡そ徒歩で10分で神社に着くはず・・なのだが、第三鳥居に廻り込むと、既に長蛇のダムストップの足止めになっていた。
例年のことらしいが、楼門から拝殿までが、参拝客の容量人数で区切り、一定時間で拝殿前から移動させ、次の容量人数を楼門から入れるという段取り・・まいった!のは、この楼門ぬ入るまでに四五回の流れの塞き止めに遭い、これに4,50分を費やしてしまった。例年凄い人出である。
おかげで、二年参りの予定はだめになったわけで・・
氷川参道の、参道の長さは凡そ2Kmと言われています。
第一鳥居の所に、これより十八丁と刻印された石があり、氷川神社までの距離を案内されていますが、一丁(町)=110mですから18倍で1980m≒2Kmとなるわけで、第一鳥居から正式に参道を経緯して参詣すると30分もかかるわけで、参道の長さ日本一と言われているようです。
実際は・・二の鳥居から参詣される方便が今流のようです。
この今流の参道の両脇を、初詣や祭りの時は、出店が並び・・それはそれは壮観であり・・祭りを彩ります。
大宮・氷川神社の不思議
大宮氷川神社は出雲系の神社とされ、伊勢神宮系とは違う流れとされています。伊勢神宮系は、稲作に関係する伝承が多く、そのため南方系渡来の文化を象徴として天皇家と深いかかわりを持ってきました。
明治維新、東京遷都で、天皇が江戸(東京)に居を移すとき、武蔵野鎮守として最初に、大宮氷川神社に参詣されました。この時、天皇が「武蔵野」をどの範囲までの守護範囲にしていたのか、正確には分かりませんが、皇居を含めていたことだけは確実です。これは多少の驚きになります。
舞台です。豆まきや薪能が演じられるところ・・
きょうは、どでかい猪の絵馬が飾られています
出雲系の神社は、その地理的特性から、大陸系の文明やしきたりの特色を多く持っています。つまり、大陸から、朝鮮半島を経て海を渡って、文化や文明がやってきた証拠で、日本が文化文明を求めたことも事実でしょうが、圧倒的には、朝鮮半島を舞台とする大陸系の民族が衝突を繰り返しながら、敗れた方が海を渡って逃避してきた先が、日本であり、日本海沿岸部が最初の到着地であったと思われます。
朝鮮半島の先の海流は、速度20ノットという自転車の早さです。海流の流れる方向は、ほとんど流れに任せて能登半島沖にたどるようです。
・意思をもって、島を経由すれば、山陰の海岸に、・・流れにまかれれば、富山以北の日本海岸に辿り着けるのだそうです。
信濃川を遡った松代あたりに巨大古墳が散在し、菅平経由で、利根川流域の群馬・埼玉の古墳群は、大陸系の異民族の痕跡跡と仮設できるではないとかと確信します。日本国内を横断したとは考えにくいと思っています。
大宮氷川神社と諏訪大社は、案外似通ったところがあります。
・それは、ともに出雲系神社であること。
・ともに、大きな湖のほとりに存在したこと。
--- ・大宮氷川神社の近くには、今は湖は存在しないが、江戸時代中期まで、「御沼」(=>見沼)という湖が存在しました。広さは、面積で、中禅寺湖と同じとされています。
・ともに、男神社と女神社が湖のほとりに対座していたとされます。
--- ・諏訪大社は「上社」と「下社」。氷川神社は「氷川男神社」(=現在地)と氷川女体神社(三室)と別れていましたが、氷川神社は統合されています。
参考:武蔵一宮氷川神社の神主さん達の歴史 (このブログの過去記事) :2014-01-27 02:35:57 | 歴史
氷川神社を参詣するとき、私が欠かさないのは、拝殿裏手にある「門客人神社」の参拝です。この「門客人神社」は別名を「荒脛巾神社」(荒脛巾・アラバハギ)といっていた神だそうです。「門客人」の読みは古語の読みで[マロウド」だそうで、どう読んでも私には読めません。
「マロウド」:塚本学先生(実は1年間くらい塚本先生の生徒でした)の用語解説:
これによると、在来の神が、外来の神を饗宴して祭り上げて主祭神にした図式が見えてくるのですが、・・これを裏付ける資料が乏しく、頭の中に「仮説」として残ってしまっています。宮本常一さんの本を読んでもすっきりしません。
「門客人神社」と氷川神社との創生にかかわる関係がどうもなぞで・なかなか理解できません。
素直に塚本先生説から類推すれば、日本武尊の弟の成務天皇の時、武蔵国造の「出雲族の兄多毛比命」が角井家の祖で、まず角井家と内倉家に分かれ、氷川男神社の角井は神官を務め「ほうり]と呼ばれ「祝」と宛字された。「祝」は読みで・いわい・であり、後に岩井・角井家になり、内倉・角井家は子孫を継承できず廃絶し角井家から養子を得て存続し、併合の後、鳥居の西に住んだことから西・角井家と名づく。併合の時、三室・氷川女体社の角井家は鳥居の東に住み、東・角井家と名づく。三社併合の後しばらくは、岩井が「ほうり」(=神官)で角井の二家は禰宜という役割だったとの文章が見える。しばらくして、明治政府から、岩井家・東角井家・西角井家は”対等”という裁定が下され、岩井家が神官を離れたと伝えられる。
この角井家と門客人(まろうど)の関係が謎めいていて面白いが、これ以上は資料が乏しくて深入りできそうもない。