ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

川島・道祖土氏

2018-02-10 14:07:32 | 歴史

川島・道祖土氏

承前・(・道祖土神明社)

『新編武蔵風土記稿』には、次のような説明がある。---・
---・岩槻城の城主・大田氏の家臣に「道祖土氏」があり、道祖土氏が住居したゆえの地名であろう。---・場所は、むかしは三室の一部であり、今では道祖土の一部は「大東」という地名に変換しているようだ。---・「按ずるに比企郡上八ツ林村の農民治部右衛門は道祖土を氏とせり。其の祖先道祖土土佐守は、岩槻の城主太田美濃守に仕へしと云へり。これを見れば此所より岩槻は程近きところなれば、若しくは此の人など爰に住せし事ありて、それにより起こりし村名なるも知るべからず。」---・

時代背景を見てみよう。
「岩槻の城主太田美濃守」とあるが、太田資正のことと記録に残る。太田資正は1522年に生まれ、通称は太田源五郎。太田美濃守、太田民部大輔、晩年は太田三楽斎道誉と号す。太田道灌の孫にあたる。
太田資正の頃、小田原北条が膨張して、河越を拠点とする「扇谷上杉」を脅かし始めている。伊勢原で、道灌が北条に謀殺されていることを考えると、軋轢はもっと前ということのようであるが・大田家は、「扇谷上杉」の「家宰」の家筋であり、もとは横浜(都築郷太田庄)の守護代の家柄であったらしい。「家宰」を翻訳すると「家老」という意味が出てくるが、関東管領という職務を前提にすると、知行地の実務代行者の意味を加えて、家老よりも広い意味だろうと思う。

河越城の戦歴は、
1:)天文6年(1537):扇谷上杉,北条氏綱によって負ける:北条の持ち城
2:)天文14年(1545):関東管領上杉憲政が河越城を包囲。:膠着
3:)天文15年(1546):北条氏康、夜襲:奇襲で北条勝利

図:養竹院:太田道灌の陣屋跡:川島町

・川島町史によれば、岩付・大田氏は、道灌の時代には、江戸から川島へ移リ住、後に岩付に移ったとしています。痕跡を辿れば信憑性があるようです。 

扇谷上杉を主君持つ大田美濃守は、戦いに敗れたが、小田原北条の軍門に下ることを潔しとしなかったらしい。
この、小田原北条への反抗の豪族は、大田美濃、寿能城の潮田氏、富士見・南畑の難波田氏等であった。反攻の拠点を松山城と定めて、それまでは仲間だった松山城の上田氏を追って城をとり、拠点とした。
この時、大田美濃の家臣だった道祖土氏は、川島郷の居を移して松山城の大田美濃や難波田氏を支えた。
以後、道祖土氏は、川島・八林の住人となり、大田美濃が破れて片野へ逃避するも同行せず、その地の豪農になったという。

図:道祖土家地図:川島町・八林郷付近

図:善福寺:道祖土家菩提寺


図:道祖土家文書跡:/図:道祖土家文書

道祖土家文書は、埼玉文書館に寄贈・管理されています

道祖土氏は、馬上1・鐘打ち1・旗持1というから、かなり小さい家臣団の一人だったと推測される。戦争となれば、扶持無しの近在の小作・雑兵が5~15人が集団化する軍団だろう。雑兵は、一旗組なので不利と見れば離散する。道祖土氏は、三室から移住することによって、大豪農になったようだ。
それよりも貴重なのは、道祖土家には、主君・大田家からの指示書や軍役の招集状や功績に対する感(謝)状などがかなり残されており、当時の中級武士の生態などを鮮明に明らかにしてくれる古文書の類が残されているようだ。

・難波田氏 ・武蔵七党の金子党の系譜、岩付・大田氏の縁戚(寿能城の潮田と義兄弟?)大田美濃とともに松山城を守り後北条(小田原北条)と対抗。
・上田氏 ・東秩父の日蓮宗浄蓮寺が菩提寺。松山城主を追われて浄蓮寺に隠棲します。この地は、武蔵7党の丹党の大河原氏館跡と推測されており、上田氏も一族か?と・
道祖土氏の系譜は、川島で生活しています。大田氏家臣・道祖土氏は、道祖土氏(代官・豪農)の陣屋は、跡地となっています。現在の道祖土氏宅は、昔の陣屋と違うので、慎みとして探索は不可としましょう。

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 道祖土神明社 | トップ | 松山城・跡 »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
はじめまして (たんころ)
2018-12-01 08:31:51
はじめまして。広くは.名古屋圏在住.71歳男性です。ご先祖様探しをボツボツとやっています。
幕末期の道祖土家にたどり着き、かなり端っこの末裔かも?と。しかし、肝心の八ツ林道祖土家への系譜が「?」なので何とも言えない状態です。

八ツ林道祖土家にたどり着けば、中臣鎌足がご先祖様ということに。
夢を感じます。(室町時代中~末期頃に「家系買い」をしての「鎌足」と思っていますが)

『現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵国足立郡道祖土村が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)長家流那須氏族。近年、埼玉県に多数みられる。』https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E9%81%93%E7%A5%96%E5%9C%9F
(名字由来net)

道祖土家文書からも同様の系譜が見て取れます.ね。

八ツ林のほかに登戸・騎西・鴻巣ほか、やや遠くは八王子・千葉・神奈川などにも道祖土家ほかが・・・

いろいろ教えて頂きたいのですが、・・・
時には、投稿コメントを非公開にお願いできますでしょうか。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

歴史」カテゴリの最新記事